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    <アフガニスタンの歴史>

    アフガニスタンは古来より東西文明の重要な土地した。

    紀元前3000年に、マザリシャリフ地方(首都カブールとは、
    ヒンズークシ山脈をはさんで、反対の北側の地方)は、
    アリアナと呼ばれ、アーリア人種が住んでいたそうです。

    彼らは支配地域を、広げていきましたが、紀元前329年に、
    マケドニアの、アレキサンダー大王に征服されます。その後、
    紀元前260年には、インドのオシュカ家により征服されます。
    この時に、アフガニスタンに仏教がもたらされました。

    有名な、バ−ミヤン仏像も、オシュカ家の流れを汲んだもの
    だそうです。マケドニアのギリシャ文化と、オシュカ家の
    仏教文化が交じり合い、ガンダーラ様式が生まれました。

    7世紀初めには、アラブから、イスラム教が入って来ました。
    イスラム教も、好意的にアフガニスタン人に受け入れられ、
    優れた文化(文学、数学、天文学、哲学、化学、美術など)
    が築かれました。

    9世紀後半から、イラン北部からイラン系のサーマーン朝が
    勢力を拡大し、10世紀には、アフガニスタンを支配下に置き
    ました。しかし、その後、アフガニスタンの南部ガズニ地方
    で、トルコ系のガズニ朝が建国され、サーマーン朝から独立
    しました。

    その後、インドのイスラム王朝であるゴール朝や、トルコ系
    のイスラム王朝である、シャー朝の勢力下に置かれました。

    そして、13世紀には、モンゴール帝国のチンギスハーンが
    攻め入り、アフガニスタンに存在するもの全てが焼き払われ、
    アフガニスタンは灰と化してしまいました。

    14世紀には、チンギス・ハーンの次男チャガタイの一族が
    建国したチャガタイ・ハーン国に、カブールやバーミアンを
    含むアフガニスタン東部は支配され、アフガニスタン西部は、
    チンギス・ハーンの孫の、イル・ハーン国の領土となります。

    1370年、モンゴルの貴族の末裔と言われるティムールが、
    ティムール帝国を興し、アフガニスタンを支配下に入れます。
    その後100年以上、アフガニスタンはティムール帝国の領土
    でした。ティムールの死後、帝国は内紛が続きました。

    その後、ティームールの子孫であるバーブルは、ティムール
    帝国の再興を図りました。バーブルは、カブールを一旦去り、
    インドのデリーを首都とした、ムガール帝国を建設して、
    カブール、カンダハルなど、アフガニスタンの大半を支配下
    に置きました。

    17世紀後半から、ムガール帝国は次第に衰退していきました。
    各地で、ムガール帝国に対する反乱が相次いで発生しました。
    加えて、イギリス、フランスなどが、インドに対して圧力を
    強めていました。そのような背景の中、1774年、アフガニス
    タン王国が建国されました。

    19世紀に入ると、イギリスは、インドの植民地化を、大きく
    進めていました。イギリスとっては、植民地であるインドの
    安定化を考えた場合、アフガニスタン王国は、ロシアに対し
    緩衝国として重要でした。アフガニスタン王国は、イギリス
    に対して、パンジャブ地方の権利を要求しますが、イギリス
    は拒否しました。アフガニスタン王国が、ロシアへ援助を
    求めたことがきっかけで、イギリスは、インドへのロシアの
    影響力を排除するため、アフガニスタンに軍隊を送りました。

    こうして、イギリスとアフガニスタンの間で、第一次アフガ
    ン戦争(1839年〜1842年)が行われました。一時、イギリス
    はカブールを占領しましたが、地元民が蜂起し、イギリスは
    退却します。カブールのイギリス守備隊4500名は、インドへ
    退却中、カイバル峠の戦いでも敗北し、わずか1人が生き残
    っただけだそうです。

    ついで、第二次アフガン戦争(1878年〜1880年)が起こりま
    した。この時の戦いでもアフガニスタンはイギリス軍を破り
    ました。(第二次世界大戦以前に、イギリスがアジアでの
    正規戦に敗れたのはこの戦いだけだそうです。)

    1919年、第三次アフガン戦争が起こり、ついにイギリスは
    撤退し、アフガニスタンは独立しました。

    1963年には、ザーヒル国王が独裁政権を樹立しますが、国王
    の従兄弟であり、首相でもあったハンマド・ダーウドを更迭
    します。1973年に今度は、ダーウドがザーヒル国王を追放し、
    王制を廃止し、大統領になります。しかし、1978年ソ連寄り
    の軍部のクーデターによりダーウドは暗殺され、社会主義国
    アフガニスタン民主共和国が成立します。

    この後、タラキ政権、アミン政権と変わりますが、どちらも
    弾圧的・反イスラム的な政治で、反対する者は全て刑務所に
    入れられました。各地で反政府活動が起こり、国内は事実上
    内戦状態にあったようです。

    とうとう1979年、ソビエトが軍事介入しました。カールマル
    を大統領につけ、傀儡(かいらい)政権をつくりあげます。
    1986年、カールマルは解任され、ナジブッラーの大統領が
    就任し、国名は、アフガニスタン共和国に改名されました。

    この、共産主義政府に対し、アフガニスタンのイスラム教徒
    たちは、山岳地帯でゲリラ闘争を始めました。特に、ソ連の
    共産主義の拡張を恐れたアメリカ、同じくソ連の南下を恐れ
    たパキスタン、石油ビジネスを保護したいサウジアラビアの
    援護を受け、イスラム教徒達はソ連に対し、ジハード(聖戦)
    と称して団結します。ムジャヒディン(=イスラム聖戦士、
    現、北部同盟)の中でも、特に影響力が強かったリーダーが、
    イスラム協会のラバニとマスード、そして、イスラム党の
    ヘクマティアルでした。

    激しいゲリラ戦の末、1988年にジュネーヴ和平合意がなされ
    1989年に、ソ連は完全撤退します。 ソ連という強力な後ろ盾
    を失ったナジブラ政権も崩壊し、1992年4月、ムジャヒディン
    がカブールに凱旋しました。ラバニが大統領となりますが、
    今度は、ムジャヒディンの各党派の争いが始まります。

    激しい、新たなる内戦が繰り広げられ、4年間に首都カブール
    だけで5万人以上が殺されと言います。

    1996年、パキスタンから突如現れたタリバン(神学生)により
    カブールは陥落します。パキスタンからの支援を受けていた
    タリバンは、その後も勢いに乗ってアフガニスタンの約90%を
    支配し、ラバニ政権は崩壊します。

    2001年には、タリバンは、偶像崇拝を否定し、バーミヤンの
    大仏を破壊、北部同盟司令官のマスードも暗殺されました。

    さらに、9月11日、米国において同時多発テロが発生します。
    10月7日には、米英軍による空爆開始されました。11月13日に
    は、北部同盟によりカブールが陥落しました。そして、暫定
    行政機構が発足し、議長にはカルザイが就任しました。

    2004年には、大統領選挙を経てカルザイが大統領に就任し、
    本格政権へと進んでいます。けれども、20年以上も続く内戦で、
    耕地面積の約3分の1は破壊され、現在も200万人以上が、隣国
    パキスタンやイランなどで国外難民になっているといいます。