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<アルメニアの歴史>
伝説では、ハイ族の族長アルメナケが一族を率いて、自らを
王と名乗り、一族をアルメニア族と名乗った事が、アルメニア
の起源とされているそうです
アルメニアの歴史は古く、最古の記録は、鉄器で有名は、
ヒッタイト帝国の年代記(前14世紀)に見られるそうです。
アルメニア最初の統一国家は、ウラルトゥ(旧約聖書のアララト)
王国で、紀元前9世紀に成立し、紀元前、590年にイラン北部の
メディアに滅ぼされるまで続いたそうです。紀元前6世紀頃には、
国際的な商業活動を盛んに行っていたと言われます。
その後、紀元前1世紀に、アルメニア高原を中心に大アルメニア
王国が築かれました。またこの頃には、 キリスト教の布教が
進み、301年に、アルサケス朝のティリダテス3世がキリスト教
に改宗し、世界で初めて、キリスト教を国教としたそうです。
しかし、ローマ帝国とパルティア(カスピ海南東部の遊牧民族)、
サーサーン朝ペルシア帝国の間で、帰属をめぐって争われ、
緩衝地帯として、属州となることもあったそうです。
428年、アルサケス朝のアルメニアは、ペルシャの支配下に入り
ました。なお、この頃、450年には、アルメニアの聖人であった、
メスロプ・マシュトツがアルメニア語の36文字を発明しました。
7〜15世紀に入ると、アラブ、ビザンチン帝国、セルジューク・
トルコ、モンゴル、タタール、チムール等の侵攻を受けます。
政治的独立を失った多数のアルメニア人は、他国へ移住した
そうです。
885年には、当時アルメニアは、サーサーン朝ペルシア帝国の
支配下に入っていましたが、バグラトゥニは、アラブのカリフ
からアルメニア王の称号を与えられ、バグラト朝をおこし、
独立を回復しました。しかし、バグラト朝も長くは続きません
でした。
1045年、ビザンチン帝国に敗北したアルメニア人は、地中海に
接するキリキア地域に移住しました。さらに、セルジューク・
トルコの侵略により、多くのアルメニア人が故国を捨てること
(ディアスポラ)になったそうです。
キリキア地域のアルメニアは、ルービニャン公爵家が支配する
こととなり、1198年は、ル−ベン国家が創設されました。
1236年には、モンゴル系の土豪がアルメニアに侵入します。
1375年には、キリキア地域のアルメニア人は、エジプトに敗北
します。その後、チムールの侵攻も受けました。
そして、 1453年には、1299年に興ったオスマン帝国がビザン
チン帝国(東ローマ帝国)を陥落しました。
16世紀〜18世紀になると、アルメニアはオスマン帝国(トルコ)
とサファヴィー朝ペルシア(イラン)による争奪戦が続きました。
そして、1639年には、オスマン帝国とペルシアの和平条約で、
アルメニアは東アルメニアと西アルメニアに二分されました。
大まかには、アルメニア西部は、トルコが支配し、アルメニア
東部はイランの支配を受けることとなりました。
オスマン帝国(トルコ)とペルシア(イラン)の長年の勢力争い
に加えて、18 世紀になるとロシア帝国が加わりました。ロシアの
ピョートル大帝の南下政策は、アルメニア人に解放の希望を抱かせ、
1720年に、東部アルメニアでは、トルコ、ペルシアに対して、
反乱が起こりました。しかし、予期したロシア軍の援助が得られず
オスマン帝国とペルシアとの干渉軍によって鎮圧されました。
しかし、その後、ロシアのアルメニア併合は、トルコとペルシアへ
の対抗力として、ロシアを利用しながらアルメニアを解放しよう
とする形で、アルメニアの指導者層によって進められたそうです。
三度にわたる、ロシア・イラン戦争の結果、1828年のトルコマン
チャーイ条約において、ペルシア領の東アルメニアはロシア領と
なりました。
一方、西アルメニアでは、19世紀後半になるとオスマン帝国の
支配下にいたアルメニア人の反発も大きくなり、トルコ人民族
主義者との対立が激化しました。
アルメニア人による武装蜂起が相次ぎました。しかし、この
アルメニア民族解放運動は、弾圧され、1894〜1896年にはトルコ
政府によるアルメニア人大虐殺が行われたそうです。
(第1次アルメニア人大虐殺。このとき殺害されたアルメニア人は
30万人といわれています。)
さらに、この時期、トルコには、オスマン帝国の改革を図ること
を主張した「青年トルコ党」が結成され、1913年、青年トルコ党
はクーデターにより政権を握り、極端なトルコ・ナショナリズムを
主張し、1915年〜1916年にアルメニア人の抹殺を行ったそうです。
(第2次アルメニア人大虐殺。この時に、殺害されたアルメニア人
は100万人とも150万人とも言われているそうです。)
1916年、ロシア軍はトルコ軍に対して勝利し、トルコ国境地帯を
占領しました。しかし、1917年になると、ロシアの経済状況・社会
状況は悪化し、トルコ軍は失った領土の一部を奪回しました。
1918年には、ロシアが、アルメニアをトルコからの防衛する余裕が
ないこと等を理由に、アルメニアは、グルジア、アゼルバイジャン
と共に「外コーカサス連邦共和国」を樹立しました。
既にこの頃、第一次世界大戦は終結に近づき、ドイツと共にトルコ
も戦争で疲労していたため、アルメニアとトルコは停戦で合意した
そうです。第一次世界大戦後、アルメニアから、トルコ軍は撤収し
ました。
1919年に、アルメニアは、西アルメニアを加え、アルメニア共和国
を宣言しました。1920年にトルコ解体を定めたセーブル条約がパリ
で結ばれましたが、その内容はオスマン帝国にとってきわめて不利
なものであり、オスマン帝国はその領域の多くを失いました。
この条約の後、トルコ人の不満と怒りは増大し、トルコ国粋運動が
盛んになり、後のケマル・アタチュルクがトルコの実権を掌握し、
アルメニアに侵攻したため、アルメニア共和国は壊滅し、その後、
ソビエトに侵攻され、1921年には、アルメニア・ソビエト社会主義
共和国になりました。
1921年、ソビエト、トルコ、アルメニア、グルジア、アゼルバイ
ジャンにより、カルス会議が開かれ、アルメニアとトルコの国境に
関し決められました。この結果、ノアの箱舟が漂着したキリスト教
の聖地「アララト山」はアルメニアから切り離され、トルコ領と
なってしまったそうです。
1922年には、アルメニア、アゼルバイジャン、グルジアは
「ザカフカース・ソビエト連邦社会主義共和国」になります。
1936年には、ソビエト連邦を構成するアルメニア社会主義共和国
として独立します。
1988年には、アルメニア大地震が起こります。
1988年には、アゼルバイジャン共和国にあるナゴルノ・カラバフ
自治州にいて、ナゴルノ・カラバフをアルメニアに帰属替えする
ことを求めるアルメニア人の運動が起り、これに反発したアゼル
バイジャン人との緊張の中で衝突が起り、民族紛争に発展しました。
1991年に、ソ連邦の崩壊に伴い、アルメニアは、アルメニア共和国
として、独立を遂げました。独立国家共同体(CIS)に加盟します。
1993年には、アルメニア人は、ナゴルノ・カラバフとその周辺地域
を掌握しましたが、アゼルバイジャンは決議を容認しませんでした。
1994年以降、ナゴルノ・カラバフ共和国は事実上の独立国となりま
した。。今も停戦は守られていますが、政情が安定しているとは
いえないそうです。1995年には、アゼルバイジャン領土の20%を
掌握しているそうです。
1995年には、国民投票により新憲法採択され国家の再建が始まり
ました。ついで、 1996年には、新憲法の下で初の大統領選挙で、
テル・ペトロシャンが大統領に再選されました。
しかし、1998年には、テル・ペトロシャン大統領は、ナゴルノ・
カラバフ問題をめぐり辞任してしまいます。 同年の選挙の結果、
ナゴルノ・カラバフ出身のコチャリャン前首相が大統領に就任
しました。1999年10月には、国会内で銃撃事件が発生し、首相、
国会議長を含む8名の要人が死亡しています。
<日本との関係>
日本とアルメニアの関係は地理的な距離の長さにもかかわらず、
緊密で暖かいものになっているそうです。1988年のアルメニア
大地震の時に、最初にアルメニアに援助してくれた国の一つが、
日本であったそうで、日本は、アルメニアにとって最大の貿易
相手国の一つでもあるそうです。