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    <アゼルバイジャンの歴史>

    アゼルバイジャンの歴史は古く、既に、紀元前3000年頃には青銅
    器時代に入り、紀元前1000年頃には、鉄器時代に入っています。

    紀元前9世紀に、アゼルバイジャンで最初の国“マンナ王国”が
    誕生しました。紀元前6世紀には、“ミディア”という国が
    生まれました。ミディアではゾロアスター教(拝火教)が国教と
    されていました。教祖である、ゾロアスターの生誕地は、アゼル
    バイジャンであったとされています。国名アゼルバイジャンの
    “アゼル”は、古代の言葉で“火”を意味するそうです。  
    首都バクー近郊には、今もなお拝火教の寺院が残されています。

    その後、アゼルバイジャンは、いく度となく異民族からの侵略を
    受けました。3世紀にはササン朝ペルシアからの支配、4世紀に
    はローマ帝国やイランの軍隊からの侵略を受けました。

    7世紀半ばに、アゼルバイジャンはアラブ人国家の、カリフ朝の
    支配下に置かれ、イスラム教が国家の宗教となりました。そして、
    新しい文化や伝統が生まれ、繁栄しました。ゾロアスター教が
    禁止されたのは、この頃です。

    11世紀半ばになると、それまでは、分権国家として存在していた
    アゼルバイジャンは、統一国家であるセルジューク・トルコの
    侵略を受け、エリデギジー王朝によって統治されました。
    この頃、トルコ語の使用とアゼルバイジャンとしての統一国家の
    形成が確立され始めます。アゼルバイジャンの精神的遺産とも
    いえる詩人や芸術家たちの活動もこの時代に栄えました。

    その後、13世紀に、タタールモンゴルの侵略を受け、衰退を余儀
    なくされたものの、16世紀には、アゼルバイジャンで最初の統一
    王朝であるイラン系のサファービー朝が誕生し、産業や文化が、
    めざましい発展を遂げました。 

    しかし、19世紀になると、アゼルバイジャンの領土をめぐって、
    旧ロシア帝国とイランとの間で紛争が起こります。結果として、
    アゼルバイジャンは北部をロシア帝国に、南部をイランによって
    併合されてしまいます。その後も、アゼルバイジャンでは分裂や
    内紛が絶えませんでした。

    1917年に、ロシア帝国からの独立を果たしましたが、ソヴィエト
    政権樹立後の1920年には、再び、アゼルバイジャンはアゼルバイ
    ジャン・ソヴィエト社会主義共和国として、事実上、ソ連邦を
    構成する一共和国になります。

    1988年には、ナゴルノ・カラバフ自治州において、アルメニアへ
    の帰属を求めるアルメニア系民族(キリスト教徒)が独立運動を
    展開しますが、虐殺事件(スムガイト事件)が発生しました。
    その後、アルメニアとは紛争が続き、停戦で合意していますが、
    アゼルバイジャンは国土の16%を失い、80万人あまりの難民を抱え
    ているそうです。

    アゼルバイジャンが再び独立を獲得したのは1991年のことでした。
    名実ともに独立国家アゼルバイジャンの新たな出発となりました。
    1993年には、CIS(独立国家共同体)への加盟をしました。
    独立後のアゼルバイジャンは着実な発展を続けています。

    また、1993年以来、元アゼルバイジャン共産党書記長のヘイダル・
    アリエフが大統領として政権を掌握しています。2003年になると
    アリエフは健康不安から引退を余儀なくされたそうですが、
    長男のイルハム・アリエフが後継者に指名されて大統領選挙に
    勝利し、権力の世襲委譲が果たされているそうです。

    1997年になると、GUAM(グルジア・ウクライナ・アゼルバイジャン
    ・モルドバの4カ国による国家連合である。)を結成し、脱ロシア
    志向のウクライナを続けています。

    例えば、2006年にはアゼルバイジャンの首都バクー、グルジアの
    トビリシ、トルコのジェイハンを結ぶBTC(バクー・トビリシ・
    ジェイハン)パイプラインが開通していますが、このパイプ
    ラインは、日欧米企業が出資して建設されたもので、輸送能力は
    日量100万バレルあり、ロシアに対抗する欧州向け原油輸出パイプ
    ラインとして期待され、カザフスタン原油の輸出も計画されている
    そうです。