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    <バーレーンの歴史>

    アラビア半島周辺の地域の歴史は非常に古いものが
    あります。3万年前には、ペルシア湾には水はなく、
    アラビア海へ注ぐ河があったそうです。

    また、アダムとイブの伝説で知られるエデンの園は、
    バーレーンだったと言う説もあります。もしそうだと
    すると、人類の祖先はバーレーンに住んでいたという
    ことになるようです。

    伝説によると、イブが知恵の実を食べたので、アダム
    とイブは追放されますが、その、知恵の実をつけた木
    だというものが、バーレーンには伝えられています。
    この木は、「生命の木」と呼ばれているそうです。

    バーレーンが歴史にはっきりと登場するのは紀元前
    3000年頃のことだそうです。    

    バーレーン周辺の地域は、かつてはディルムン文明と
    呼ばれる、人類史上最古であるメソポタミア文明や、
    エジプト文明の頃から栄えた、文明の中心地であった
    といわれています。

    メソポタミア文明は、現在のイラクの地に、紀元前
    5000年前に興りました。ディルムン文明も、同じ頃
    つまり、紀元前5000〜2500年に交易で栄えていたと
    いうことが、遺跡から出た石板に、記されています。

    ディルムン時代の文明の全貌はいまだに解明されて
    いませんが、発掘作業によって、次々と新しい発見
    が見つかっているようです。きちんと整備された
    道路や住宅、市場など、非常に高度な文化があった
    ようです。
    
    当時、ディルムン文明は、シルクロードのように、
    インダス文明とメソポタミア文明の間で交易を行い、
    海上交易の一大拠点となって栄えたそうです。

    しかし繁栄の時代も長くは続きませんでした。
    紀元前1800年〜1600年にかけて、アーリア人の軍勢が
    ディルムンを侵略し、インダス文明の諸都市を破壊
    したため、ディルムンは海上貿易の要所としての地位
    を失ったそうです。

    その後、バーレーン周辺の地域は、紀元前1000年以降、
    チグリス川とユーフラテス川の上流に興ったアッシリア
    帝国の属領として、再び繁栄の時を迎えたそうです。
    その当時から、バーレーン周辺の地域は真珠狩りと、
    漁港の島として知られるようになりました。

    ついで、紀元前600年頃、バーレーン周辺の地域は、
    チグリス川とユーフラテス川の下流に興った、
    新バビロニア帝国の属領となりました。

    バビロニアがペルシャ帝国に敗北し、巨大な領土を
    ペルシャ帝国が支配するようになってから、交易地と
    してのバーレーン周辺の地域の重要性は増しました。
    そして、紀元前323年に、バーレーン周辺の地域は、
    ペルシャから再び独立を果たすことが出来ました。

    その後千数百年の間、バーレーン周辺の地域は、穏や
    かな時代に入りました。7世紀になり、イスラム教が
    普及してからは、この地はバーレーンと呼ばれるよう
    になったそうです。

    16世紀の初めになると、大航海時代に新たな海洋航路を
    開拓していたポルトガル人がやってきました。

    ポルトガル人は、インド、アフリカ、ヨーロッパを中継
    する交易拠点として、バーレーンに着目し、島を占領し
    要塞を建設しました。現在もこの要塞はバーレーン要塞
    として残されています。しかし1603年になると、この地
    はイランのペルシャ人の手に陥落します。そして、その
    後も長く、ペルシャ人とアラブ人との抗争が続きました。

    1782年になると、カタールの現首長である、ハリファ家
    が、アラビア半島のカタール方面から移住してきました。
    そして、ペルシャ人を追い出し、一番利益の上がる真珠
    貿易に従事し、その後、ハリファ家による支配が始まった
    そうです。

    しかし3年後の1785年、ハリファ一族は、オマーンの侵入
    により追い払われたそうで、その後、ハリファ一家が、
    バーレーンへ戻ったのは1820年になるそうです。

    その後、バーレーン人の海賊行為を止めるという条約が
    イギリスとかわされました。その条約は1835年と1861年に
    改正されましたが、内容は、イギリスが軍事的な防衛を
    する代わりにバーレーンの外交を決めるという、保護条約
    でした。イギリスの最大の関心事は、この地域から、他国
    の影響力を排除し、インドへ至るルートを保護するという
    ことだったそうです。

    1932年に、バーレーンにおいて湾岸のアラブ世界で最初に
    石油が発見されました。バーレーンの経済の柱であった、
    真珠貿易がその頃崩壊していたため、バーレーンにとって
    石油の生産が、経済の柱なりました。石油収入で、教育や
    医療施設が劇的に改善され、近代化が急速に進みました。

    そして、バーレーンはイギリスの湾岸での作戦に、大きな
    役割を果たすようになり、1935年に、イギリス海軍も基地
    をこの島に移すこととなりました。

    バーレーンの近代化は、ハマド・ブン・アリ首長の下で
    始まりました。さらに、1942年には、息子のサルマンが
    首長になり、近代化は加速します。

    サルマン首長は、19年間在位しましたが、その間、国家の
    生活水準は飛躍的に上がりました。その間サウジアラビア、
    クウェート、カタールにおいて石油生産が爆発的に伸びま
    したが、バーレーンの開発、保健衛生、教育レベルに匹敵
    する国はなく、バーレーンは湾岸諸国の中でも主要な企業
    国となったそうです。

    サルマン首長は、1961年に亡くなり、息子で現首長の、
    イサ・ビン・スルマン・アル・ハリファが後を継ぎました。

    1968年には、イギリス軍のスエズ以東撤退が発表されたの
    を契機に、湾岸の9首長国(バーレーンを含む)は連邦結成
    協定を結びました。

    しかし、イランがバーレーンの領有権を主張したことを
    きっかけに、バーレーンは国連へ問題解決の協力を求め、
    結局、連邦からは離れて、1971年に首長国として独立を
    宣言しました。1973年には、憲法が発布されました。
    そして、総選挙が行われ、議会が召集されました。

    1975年に入ると、急進的な国民大会の議員により、政府の
    職務が不可能であるという理由で、首長は国民議会を解散し
    政党活動を禁止しました。こうして、バーレーンは、次第に
    絶対君主制の体制を強めていうことになりました。

    また、1979年のイランで起こった、反欧米主義とイスラム
    至上主義化を求めるイスラム革命は、バーレーン政府にも
    警戒心を起こさせました。それは、バーレーンの支配層は
    イスラム教のスンニー派でしたが、国民の70%は、イランと
    同じシーア派であったためです。民主化は遅れました。

    一方、経済は、1970年〜80年代を通じ、石油価格の高騰に
    伴い、大きな発展を遂げました。インフラの整備も進みま
    した。経済も多様化し、石油への依存も減ったそうです。

    1999年に、アル・ハリファ首長の逝去に伴い、シェイク・
    ハマド・ビン・イーサ・アール・ハリーファが即位し、
    政治改革に着手しました。

    2001年には、再び民主化推進に向け国民投票を実施します。
    2002年には、国名をバーレーン王国へ改称し、絶対君主制
    から立憲君主制へ移行します。さらに、議会の設置や、
    普通選挙の実施、首相の任命、男女平等参政権や司法権の
    独立など、中東には珍しい体制を整え、民主化路線を進めて
    いるそうです。(ただし、政党活動は禁止されています)

    外交面では、中東地域の国々やイギリス、フランス、日本、
    アメリカを始め、多くの国と良好な関係を築いているそう
    です。しかし、イラクとは、湾岸戦争以来、関係は悪化して
    いるそうで、湾岸戦争後、アメリカと防衛協定を結び、
    アメリカ軍が駐留して、南部の約25%がアメリカ軍基地と
    なっているそうです。

    <日本との関係>

    石油が発見されるまでの何千年もの間、バーレーンや
    カタールなど、ペルシア湾の主な産業は真珠でした。
    ペルシア湾で採れる真珠は、とても美しく世界中から
    高い評価を得ていました。

    しかし、1920年代以降、世界恐慌や、日本の御木本幸吉
    (ミキモト真珠の創業者)によって、真珠の養殖法が
    発見された結果、ペルシア湾の真珠産業は急速に衰えた
    そうです。入れ替わるように、バーレーンでは1932年に
    湾岸諸国で初めて石油が発見されました。その最初の
    石油は、日本(横浜)へ輸出されたそうです。