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    <バングラディシュの歴史>

    現在のバングラデシュ周辺の地域には、古くから文明が発達して
    いたそうです。紀元前4世紀のマウリヤ朝から、紀元前6世紀の
    グプタ朝まで、数々の王朝が支配していました。バングラデシュ
    の北部に残る遺跡から、古代の王朝は、仏教やヒンズー教の影響
    を受けていたことが分かるそうです。

    8世紀の中頃には、パーラ朝という仏教王朝が繁栄しました。
    しかし、12世紀にはヒンズー教のセーナ朝にとってかわられます。
    ついで、13世紀には、イスラム教が広まりました。

    16世紀にはムガール帝国の支配下におかれます。そして、美術や
    文学が花開き、また、陸路での交易や、海上貿易の拠点となります。
    こうして、ベンガル(カルカッタを州都とするインドの西ベンガル
    州と、バングラディシュを含んだ地域)は栄えることになります。

    15世紀末になると、ヨーロッパの貿易商人が訪れるようになります。
    ポルトガルが、その富に目を付けましたが、地元の反乱により、
    撤退しました。ついで、イギリスが、1690年に東インド会社を設立
    します。当時、すでにムガール帝国の力は減退しており、一度は、
    イギリスを撤退させましたが、1757年、プラッシーの戦いにおいて
    イギリスに敗れ、東インド会社の支配を受けるようになりました。

    1857年、イギリスに対して、セポイの反乱がおこります。反乱は
    静められましたが、東インド会社の統治は崩壊し、代わりに、
    イギリスがインドを直接統治することになりました。そして、
    カルカッタ周辺は、インドにおいて、商業、教育、文化の最も重要
    な中心地域の一つとなりました。

    この地域で少数派を占めた、ヒンズー教徒はイギリス人に協調的
    でしたが、イスラム教徒はイギリスに対して反感を持っていたため
    ことあるごとに、暴動を繰り返していました。

    そうした中、第二次世界大戦が終わり、ヨーロッパの植民地主義は
    崩壊し、イギリス領のインドも独立への気運が高まりました。

    その当時、ベンガル地方では、ヒンズー教徒とイスラム教徒とが、
    宗教衝突を繰り返し、政情は安定していませんでした。
    イギリスは、イスラム教徒とヒンズー教徒との間では、どのような
    合意も不可能だと考えました。そして、イスラム教徒の多いインド
    の東にあるベンガル地方と、インドの西にあるパンジャブ地方を、
    それぞれ、東パキスタン、西パキスタンとして、独立させました。

    東パキスタンは、西パキスタンとは、イスラム教以外はほとんど
    共通性がありませんでした。度々、西パキスタンから、差別的統治
    を受け続けていました。そして、西パキスタン(現在のパキスタン)
    が、ウルドゥ語のみを国語とすると宣言した時、ベンガル語を話す
    東パキスタン(現在のバングラディシュ)では、反発が強まりました。
    そして、この反対運動は、その後、東パキスタンの自治権を拡大する
    ことへと変わっていきました。

    自治権を要求していたアワミ連盟は、1971年の総選挙で、第一党と
    なります。西パキスタン軍部は自治拡大運動の取り締まりを始め、
    指導者の、シェイク・ムジブル・ラーマンは逮捕し、アワミ連盟も
    非合法化してしまいます。

    アワミ連盟の党員や1000万人の東パキスタンの人々がインドへ避難
    し、インドに臨時政府を樹立しました。これに対して西パキスタン
    は反乱を押さえるために軍隊を送り、東パキスタンの村々を焼き払
    い、激しい戦闘が始まりました。一方、インドで訓練を受けた、
    東パキスタンのゲリラは、国境を越え、東パキスタンと、インドの
    国境で衝突します。

    結局、インドの後押しを受けた東パキスタンが戦いに勝ち、1971年、
    バングラディシュは公式に世界139番目の国家として独立しました。
    
    国民的な人気を持った、ラーマン指導のもとで、バングラディシュ
    の建国は進んでいきました。1973年に最初の国会選挙が行われ、
    アワミ連盟が政権を担うことになりました。

    その後、バングラディシュは、1973〜74年、飢饉に襲われました。
    ラーマンは非常事態宣言を出し、憲法を改正するなど、政府の権限
    を拡大し、BAKSALという1党独裁政権体制をひきました。しかし、
    政治改革は進まず、ラーマンへの批判が次第に高まります。1975年、
    軍事クーデターが起こり、アワミ連盟の政権は倒され、ラーマン
    首相は、親戚とともに、自宅で射殺されてしまいました。

    その後のバングラディシュでは、クーデターが繰り返されます。

    陸軍参謀総長、ジアウル・ラーマンが全権を握り、大統領に選ばれ
    バングラディシュ民族主義党 (BNP)を率います。しかし、ジアウル
    ・ラーマンこれも軍部の反対勢力により暗殺されてしまいます。
    ついで、副大統領のサッタールが大統領職を引き継ぎますが、
    1982年、陸軍参謀長エルシャドによる無血クーデターで倒れます。
    エルシャドは国民党を作り、大統領選挙で当選しました。しかし、
    独裁政治で、野党とはうまくいかず、1990年中頃から始まった、
    ゼネスト、抗議集会などの人民運動が激化により、退陣しました。 

    1991年、総選挙が行われ、野党のバングラディシュ民族主義党、
    アワミ連盟がそれぞれ第1党、第2党となり、与党の国民党は第3党
    に転落しました。バングラディシュ民族主義党のベグム・カレダ・
    ジア(暗殺されたジアウル・ラーマン大統領の未亡人)が初の女性
    首相となりました。ようやく民主主義が根付き、経済も成長します。

    しかし、その後、バングラディシュ民族主義党とアワミ連盟の政治
    的対立が激化するようになります。1996年に行われた総選挙では、
    バングラディシュ民族主義党が圧倒的に勝利しますが、野党からの
    選挙の正当性を問う声が大きく、ジア首相は辞任しました。
    同年、再び総選挙が行われ、今度は、アワミ連盟が第1党となりま
    した。この結果、アワミ連盟の党首シェイク・ハシナ・ワゼド
    (殺されたムジブル・ラーマンの長女)が首相に就任しました。

    2001年、再び、バングラディシュ民族主義党のベグム・カレダ・
    ジアが首相に返ります。しかし、2006年、軍の圧力で、ジア首相
    政権は退陣し、暫定政権が発足しました。暫定政権は職の撲滅や
    イスラム過激派対策に取り組んでいるそうです。