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    <ブルネイの歴史>

    ブルネイは、その国の意味である、「平和な土地」に表されて
    いるように、ヨーロッパ諸国等の植民地になったり、部族間の
    抗争が絶えなかった東南アジア諸国の中では、最も安定して、
    平穏な時が流れた国と言えるようです。世界においても、最も
    長く続いている王朝でもあるそうです。

    その理由としては、他の東南アジアの国々と違い、貿易の中継
    地としては、少し不便な場所にあったこと、周囲に、他の都市
    国家がなく、都市国家間の抗争の影響を受けていないこと、
    また、19世紀に至るまで、ヨーロッパ人が興味を持ち、搾取の
    対象となる資源を生み出していなかった、という3つがあげら
    れるそうです。

    つまり、立地があまり良くなく、周囲にも競争相手となる国家
    がなく孤立していたこと、また、ヨーロッパで商用の対象に
    なる産物や、鉱物資源が見つからなかったことで、植民地にも
    ならなかったわけです。

    しかし、古くから、国土の大部分を占める熱帯雨林では、熱帯
    特有の多様な動植物、香辛料や薬用植物、高価な工芸用木材など
    といった、天然の生物資源を産出していました。

    そのため、近接した高度な巨大文明である、インドと中国とは
    交易の基盤とて、王朝や文化が花開いていたそうです。

    4世紀から5世紀頃、インドではチャンドラグプタ1世が開いた
    グプタ朝が影響力を拡大していました。グプタ王朝の文化には、
    サンスクリット語、デーヴァナーガリー文字等がありますが、
    ブルネイでも、サンスクリット語が使われていたそうです。

    また、中国の古代の歴史書である、「梁書」の中の「海南伝」
    からは、すでに2世紀には港市が開かれていたことが分かる
    そうです。また、971年には、ブルネイが、当時の宋に対して
    朝貢を行っていた記録も残っているそうです。

    15〜16世紀には、ブルネイは、ボルネオ島の大部分だけでなく
    フィリピンの一部をも支配下においていました。ブルネイ王国
    の最盛期です。この頃に、東南アジアには、まずポルトガルが、
    そして、スペインがヨーロッパから来ました。

    1521年に、太平洋を横断し、東からやって来たスペイン艦隊の
    マゼランがヴィサヤ諸島(現在のフィリピン)に到着します。
    ヴィサヤ島、リマサワ島、セブ島は従いましたが、マクタン島
    の英雄ラプ・ラプは、植民地化を目的とするマゼランを倒し、
    スペイン人をはねのけました。

    リーダーを失ったマゼラン艦隊が次に寄港したのが、ブルネイ
    でした。この時に、ブルネイは、マゼラン艦隊と取引を行いま
    した。艦隊側の記録に、ブルネイ湾内に2万5000戸の水上家屋が
    あると残っています。王族だけは、陸上に居を構えていたこと
    も記録に残っています。

    1526年、今度はマラッカから東に進むポルトガル人が、ブルネイ
    来ました。ポルトガル人の目的は、香辛料の産地であるモルッカ
    諸島でした。ブルネイは、香辛料等の産地ではありませんでした。
    また、貿易の中継地点としても、あまり便利ではなかったので、
    スペイン、ポルトガルとは、大きな摩擦はありませんでした。

    1596年、今度は、第三の勢力として、オランダ人がジャワに到達
    しました。オランダは、スマトラ島の征服をほぼ完了しましたが、
    利益につながらない占領には興味がなく、ボルネオ島を占領して、
    開発に乗り出すことはありませんでした。イギリスは、オランダ
    との条約により、価値がないと思われていた、ボルネオ島北部に
    関する権利は獲得していましたが、開発に積極的ではありません
    でした。

    19世紀半ばに、ブルネイのサラワク地方で、反乱が起こりました。
    スルタンは1939年、イギリス人の探検家、ジェームス・ブルック
    にこの反乱の鎮圧を依頼しました。鎮圧に成功したブルックは、
    クチンという都市と、白人王(ラジャ)の称号を与えられました。
    その後、ブルックは、クチンを拠点に、領土を拡大しました。

    イギリスは、その後、領土の所有権が明確ではなかった、北部の
    サバ地方に、北ボルネオ会社を設立し、サバ地方を支配しました。
    そして、1888年、国力を失いつつあったブルネイは、領土保全の
    ため、イギリスの保護領となりました。

    1929年、ブルネイにおいて、石油が発見されました。石油の発見に
    より、ブルネイの国力は徐々に回復します。第二次世界大戦では、
    ブルネイは日本海軍によって占領されましたが、大きな戦闘もなく、
    平和だったそうです。しかし、日本軍は、原油から燃料となる重油
    だけを分留して、ガソリンなどをそのまま野焼きにしたそうです。
    ブルネイ人に、悪い印象も与えているようです。

    1959年、ブルネイは、外交、防衛を除き、自治を獲得しました。
    外交、防衛は、イギリスが保護国として、担当していました。
    
    1961年、マレーシアの独立に向け、マレーシア初代首相に就任した
    アブドル・ラーマンは、シンガポール、ブルネイ、サバ、サラワク
    を含んだ、連邦国家マレーシア構想を発表しました。
    しかしブルネイの石油利権の取り扱いで、意見が一致せず、結局、
    ブルネイは連邦国家マレーシアへの不参加を決定しました。

    1962年、ブルネイにおいて、共産主義勢力の反乱が起こります。
    スルタンは、憲法を停止し、非常事態宣言を発しました。
    ブルネイはその時以来、緊急法の下にあり、選挙も行われていま
    せん。1984年、ブルネイは、イギリスから完全に独立しました。

    独立後、ブルネイはASEAN、そして国連加盟へ加入しました。
    1995年には、IMFに加盟し、2000年には、APEC主催国に
    なっています。 

    現在のブルネイは、その石油収入で、国家財政は豊かだそうです。
    石油の富は王族に集中していますが、一般市民も、各種の税金は
    無料で、豊かな生活レベルにあるそうです。