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    <カンボジアの歴史>

    1世紀〜6世紀にかけては、クメール人による、扶南
    (フナン、又はフーナン)王国がカンボジアの大部分を
    支配してたと中国の書物に書いてあるそうです。

    3世紀までは未開の地だったそうですが、インドと中国の
    中間地点にある水路の要衝だったので、商業国家として
    繁栄し、稲作も発達していたそうです。インドの影響を
    強くうけていた文化だったようです。

    6世紀には、カンボジア国家の起源とみなされている国、
    北方クメール人による真臘(しんろう、チェンラ)国が
    興りました。(古代カンボジアとも呼ばれます)

    7世紀には扶南を滅ぼし、ジャヤーヴァルマン1世(657〜
    681年)の治世の頃に最大となりました。インド文化の
    影響を受け、サンスクリット文字を使用したそうですが、
    クメール文字も使われ始めました。

    しかしジャヤーヴァルマン1世の死後、古代カンボジアは、
    北と南に分裂し弱体化し、8世紀にはジャワ王国の支配下
    に入ったそうです。

    ジャヤーヴァルマン2世(802〜854年)は、ジャワ王国から
    の独立を果たしましたが、これが、アンコール王朝
    (クメール王朝)の始まりだと言われています。

    9世紀の末、ヤショーヴァルマン1世がアンコールに都を
    築き、13世紀にかけて、アンコール文明が栄えることと
    なりました。

    1113年には、スールヤヴァルマン2世が即位し、国内を
    統一し、チャンパ王国 (ベトナム周辺のマレー、ポリネ
    シア系の国) や、大越国 (ベトナムのハノイを首都とした
    王朝) へ攻め入りました。

    その結果、王国の範囲は、タイ、マレー半島、ベトナム
    などに広がりました。王は、寺院建築にも熱心で、
    自身の墓でもあるアンコール・ワットを始め、多くの
    ヒンズー寺院を建築しました。

    スールヤヴァルマン2世死後、王位を巡り争いが続きま
    した。ジャヤーヴァルマン7世は、病院や、主要街道に
    宿場を建設し、庶民の生活も重視しましたが、大規模な
    寺院建設と領土獲得の遠征のため、王の死後は、国力が
    衰退したようです。

    13世紀に入ると、元の侵攻が始まり、さらに隣国タイの
    アユタヤ王朝の侵攻が始まりました。14世紀に入ると、
    アユタヤ王朝に首都アンコールは征服されてしまいます。

    その後、首都は転々とし、現在のプノンペンのあるチャド
    モックに遷都しましたが、17〜18世紀は、タイやベトナム
    の侵略や干渉がつづき、国内は混乱したそうです。

    1863年に、フランスによるインドシナ半島の植民地化が
    開始されました。既に、1867年までに、ベトナム南部を
    征服していたフランスは、1893年からカンボジアを支配
    することになりました。

    1940年に、日本軍がインドシナ半島に侵攻し、この機に
    乗じてノロドム・シハヌーク(シアヌーク)王は1945年
    にカンボジアの独立を宣言し、フランスの影響は後退し
    ました。

    しかし、日本が連合国に降伏すると、1946年には再び
    フランスの統治が再開され、独立は消滅しましたが、
    シアヌークが主導する独立運動は、激化しました。

    シハヌークは粘り強く独立運動を続け、1947年には
    憲法を公布し、1949年には、フランス連合内での独立を
    獲得し、1953年には、警察権・軍事権を回復して、
    「カンボジア王国」として、完全独立を達成しました。

    1955年、アジア・アフリカ会議(インドネシアのバンドン
    で開催)において、シハヌークは非同盟・中立外交政策
    を表明した。しばらく、平和と発展の時代が続きました。

    1965年、シハヌークは北ベトナムへの爆撃を行なう
    アメリカ合衆国との断交を宣言しました。ベトナム戦争
    の影響で国内は不安定だったものの、シハヌーク政権の
    時代には、まだ爆撃や内戦は激化していなかったため、
    食糧も輸入に頼ることなく、避難民も発生していなった
    そうです。

    1969年、アメリカはカンボジア内の共産勢力のベース
    キャンプに、多くの市民を巻き込んだ爆撃を行い、
    カンボジアはベトナム戦争へと引きずり込まれること
    となりました。

    1970年には、アメリカ支援の下、親米右派のロン・
    ノル将軍がシハヌークの外遊中にクーデターを決行し、
    クメール共和国を成立させました。そして、国王の
    シアヌークは北京へ亡命しました。

    また、ロン・ノルは、ホーチミン・ルート(ベトナム
    戦争時に、北(ベトナム民主共和国)から中立国ラオス、
    カンボジア領内を通り南(ベトナム共和国)に至る、
    南ベトナム解放民族戦線への陸上補給路を指す)を
    粉砕するため、アメリカ軍と南ベトナム軍に自国を
    侵攻させました。

    北京へ亡命したシアヌークは、カンプチア民族統一
    戦線を結成し、反ロン・ノル諸派の共闘を呼びかけ、
    王国民族連合政府を作り、ロン・ノルに対して、
    政権の奪回を図りました。

    シアヌークの呼びかけ対して、毛沢東主義に心酔した
    ポル・ポト、キュー・サムファン、イエン・サリら
    の指揮するカンボジア共産党(クメール・ルージュ)
    が中国共産主義勢力の援助の下、行動を開始しました。

    そして、ポル・ポトはシハヌークを擁立し、ロン・ノル
    政権との間で内戦となりました(カンボジア内戦)

    一方、アメリカと南ベトナム軍は、ベトナム共産軍を
    根絶する名目で、カンボジアへも侵攻していましたが、
    失敗に終わりました。

    この時に、今まで局地的に行われてきたアメリカ軍に
    よるカンボジア空爆は、人口の高密度地域を含む、
    カンボジア全域に拡大し、数十万人の農民が犠牲と
    なり、大量の国内難民が発生し、農業生産は激減した
    そうです。反政府活動も激化していきました。

    1973年に、ベトナムからのアメリカの撤退により、弱
    体制となっていたロン・ノルは、1975年に、ハワイに
    亡命しました。ベトナムではサイゴンが陥落して、
    ベトナム戦争が終結しました。

    カンボジアの左翼ゲリラ(クメール・ルージュ)は、
    カンボジアの内陸部へ追い込まれていましたが、
    ロン・ノルに代わって、クメール・ルージュが首都
    プノンペンに入城しました。1976年1月に「カンボジア
    民主国憲法」が公布され、国名も、民主カンボジアに
    あらためられました。

    同年に、意見の対立からシアヌークが国家元首を辞任
    すると、カンボジア共産党書記のポル・ポトが政権を
    にぎりました。

    内戦による農業の破壊、食糧輸入援助の停止といった
    混乱状態の中、クメール・ルージュは都市住民の糧は
    都市住民自身に耕作させるという、極端な原始共産制
    社会への回帰政策を実行し、都市居住者、資本家、
    技術者、学者・知識人などから一切の財産・身分を
    剥奪し、郊外の農村に強制移住させました。
    
    旧政権関係者、都市の富裕層や知識層、留学生、
    クメール・ルージュ内の親ベトナム派の多くが、反乱
    を起こす可能性があるという理由で処刑されました。

    この、1975〜1979年のポル・ポト時代の4年間は、
    中国の毛沢東主義を奉じた、極端な農本主義政策が
    採られました。中国の文化大革命さながらの大改革で、
    貨幣も廃止されましたが、これらの非効率的なやり方
    は大旱魃をもたらし、出生率が異常に低下する一方で、
    飢餓と虐殺で100万人とも、200万人ともいわれる、
    大量の死者を出したそうです。 

    1978年、ポル・ポトはベトナムを攻撃し、ベトナムと
    断交しました。この頃、ベトナムはソビエト連邦との
    関係を強化しており、中ソ対立の構図から、中華人民
    共和国と関係の深いポル・ポト政権と対立することと
    なりました。

    これに対して、今度は、ベトナムがカンボジアに侵攻
    しました。ベトナムは、元クメール・ルージュ将校で
    ベトナムに亡命したヘン・サムリンを擁立し、ポル・
    ポト打倒を掲げカンボジアに侵攻しました。

    ヘン・サムリンは、プノンペンを制圧し、カンボジア
    人民共和国の成立を宣言しました。この後、タイ国境
    のジャングルへ逃げ込んだクメール・ルージュ、北京
    へ亡命したシアヌーク国王、クメール人民民族解放戦線
    (ソン・サン議長)の3派は共闘同盟を結んで、民主
    カンプチア連合政府をつくって、ヘン・サムリン政権
    との間で、内戦が続きました。

    ヘン・サムリンのカンボジア人民共和国は、ベトナム
    の傀儡政権であるとして世界の承認を得られなかった
    そうです。

    1983年に開かれた、インドシナ3国首脳会談でベトナム
    軍の部分的撤退が決議されましたが、ベトナム軍は、
    ポル・ポト派の拠点を攻撃しました。

    1984年の東南アジア諸国連合外相会談では、駐留する
    ベトナム軍への非難共同宣言が採択されました。
    しかし、ベトナム軍は内戦に介入し続け、1985年に、
    民主カンプチア連合政府の拠点を攻略、シハヌーク
    国王派の拠点も制圧しました。

    しかし、1988年、ベトナム首相ファン・フンが急死し、
    政変が起こると、ベトナムは軍の撤収をはじめます。
    その結果、フン・センはベトナム軍の支えを失って
    弱体化し、内戦は更に泥沼化しました。

    1990年、とうとう、国連安保理が介入するこになり
    ました。東京でも、カンボジア各派が参加する和平に
    向けた直接対話の場として「カンボジアに関する東京
    会議」が開催されました。

    1991年、カンボジア和平パリ協定が開催され、
    国際連合カンボジア暫定統治機構(UNTAC)"の設置、
    紛争当事者である、フン・セン政権と民主カンプチア
    連合政府を合わせた四派による、カンボジア最高国民
    評議会(SNC)が結成されて、最終合意しました。

    SNCから権限を委任されたUNTACは、武装解除や憲法
    制定議会選挙の準備に取り組みました。しかし、
    ポル・ポト派によるゲリラ活動や選挙準備の妨害が
    頻発し、PKO(国連平和維持活動)は困難を極めました。

    1993年に、国民議会総選挙が行なわれ、立憲君主制が
    採択され、シハヌークが国王に再即位し、カンボジア
    王国が、23年ぶりの統一政権として誕生しました。

    クメール・ルージュは武装解除に応じず、総選挙も
    ボイコットしましたが、1997年に、ポル・ポトは、
    人民裁判で終身刑を宣言され、1998年に山中で死亡
    し、ポル・ポト派幹部が国民へ謝罪しました。

    カンボジアは、民主主義、自由市場経済社会へと変わり
    仏教が国教となりました。また、ラナリット(シアヌー
    クの二男で、フンシンペック党党首)が第一首相、
    フンセン(カンボジア人民党)が第二首相に選出され
    「二人首相制」の内閣も成立しました。

    1997年7月、プノンペンにおいて、フンシンペック党
    (ラナリット)とカンボジア人民党(フンセン)の
    軍隊が衝突するという事件が起こり、カンボジア人民党
    のフン・センが第一首相に就任しました。

    2004年にシハヌークが退任し、ノロドム・シハモニ
    (6番目の妃との間に生まれた)が国王に即位しました。

    ノロドム・シハモニは、1960〜1970年代に、プラハで
    クラシック・ダンスを学んだのち、北朝鮮に渡り映画
    撮影技術を学び、1981年にはフランスに渡り、バレエを
    教えていました。その後、フランスに20年間留まること
    になり、1993年からはパリでユネスコの大使を務めた
    ていました。

    シアヌークは、これまでも国内情勢が混乱するたびに
    「退位」を切り札として事態を収拾してきましたが、
    この退位の理由は、高齢に加え、自分の死後に、王位
    継承問題がもつれ、王制廃止につながることを恐れた
    ためととも推測されています。

    2004年10月中旬、カンボジアは、WTO(世界貿易機関)に
    正式加盟し、自由貿易の国際ルールの中での経済発展を
    めざすことになりました。治安や経済などの復興へと、
    着実に歩みを進めています。

    2006年10月18日、フンシンペック党の党首から解任
    されたは、ラナリットは、ノロドム・ラナリット党を
    設立しました。

    2007年には、フィリピンに滞在中のラナリットに、
    背任罪の実刑判決(禁固1年6カ月)が下っています。
    カンボジアの法律により、禁固刑の判決を受けた者は、
    刑期の3分の2を終えないと2008年度の総選挙に立候補
    できないため、海外に滞在したラナリットの動きは、
    注目されているそうです。