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    <中国の歴史> 長いので、3部構成になっています。

    アジアに大きな影響を持った、中国の歴史を一度に
    紹介するのは、大変ですので、今週号では、中国古代
    文明〜清の滅亡(日中戦争の前)までを紹介いたします。

    中国は、3000年以上の歴史を持ちます。黄河文明は古代
    の四大文明の一つに数えられ、アジアの歴史の中で、
    どの時代でも、非常に大きな影響を持ち続けて来ました。

    大まかになりますが、長大な中国の歴史の流れをたどっ
    てみたいと思います。

    先史時代、中国に現れた最初期の人類としては、有名な
    北京原人などが知られています。

    その後、黄河文明と長江文明が栄えました。黄河文明は
    畑作が中心、長江文明は稲作が中心だったと言われます。

    黄河文明は、殷(商)や周などの王朝へつながっていき、
    中国大陸の歴史の中軸となっていきました。一方、長江
    文明は、黄河文明が始まる前から栄えていたと考えられ
    ますが、次第に、中央集権的な国家となった黄河文明に
    吸収されていったそうです。長江の流域に、次の時代に
    登場する夏王朝が存在したのではないかという説もある
    ようです。

    黄河や長江の古代文明の後、三皇五帝という帝王が登場
    する、中国の神話伝説時代があります。三皇は神、五帝
    は聖人としての性格を持つとされますが、現在では実在
    の人物とは考えられていないようです。

    次に、夏、殷(商)、西周という古代王朝が続きます。

    実は、夏については、よく分かっていないようです。
    ですから、殷(商)が実在の確認されている最古の王朝
    になります。殷では、王が占いによって政治を行ってい
    たそうです。(神権政治)これに対して、西周は、各地
    の有力者や王族を諸侯とした封建制だったそうです。

    次に、春秋戦国時代を経て、秦、漢の時代になります。

    春秋時代は、都市国家の盟主の間での戦いでした。
    春秋時代の末期、最強の都市国家であった晋が、三つに
    分裂(趙、魏、韓)しました。この頃に、経済が発達し、
    鉄器が普及し、農業生産も増大します。晋の分裂以後を
    一般に、戦国時代と呼ぶそうです。戦国時代には、戦乱
    の世の過ごし方を説く、諸子百家(陰陽家、儒家、墨家、
    法家、名家、道家、兵家等)が出ました。

    そして、戦国時代に、富国強兵に努め、着々と勢力を伸ば
    した秦の、秦王政が、紀元前221年に、初めて中国統一を
    成し遂げました。秦王政が、自らの偉業をたたえ、王を
    超える称号として、「皇帝」という言葉を用い、自らを
    始皇帝と名乗りました。

    始皇帝は、地方を支配する郡県制を定め、文字・貨幣・
    度量衡の統一をしたり、万里の長城の建設をしました。

    始皇帝の死後、農民の反乱等がおき、秦は紀元前206年に
    滅びました。秦が滅びたあと、劉邦と項羽が覇権をめぐり
    争いましたが、紀元前202年に、劉邦が項羽を破り、漢の
    皇帝となりました。漢の武帝の時代は、国内も安定し、
    対外関係も、シルクロード貿易をとおして、交流や発展が
    進みました。この頃から、儒教が統治の基本となりました。

    一時、漢は滅びますが、漢の皇族の血を引く劉秀によって
    漢王朝(いわゆる後漢)が復興されました。

    後漢末期の184年に、黄巾の乱と呼ばれる農民反乱がおきま
    した。これ以降、中国は分裂を続けました。有力であった
    のが、曹操の子供が建国した魏、四川省の劉備が皇帝の蜀、
    そして、江南の孫権が皇帝の呉でした。この魏・呉・蜀の
    三国が並立した時代を三国時代といいます。

    魏は、国号を晋と改名し、280年に呉を滅ぼして、中国を
    統一しました。けれども、五胡と呼ばれる異民族を軍隊と
    して用いたため、五胡が非常に強い力を持つようになりま
    した。その結果、316年には、五胡の1つである匈奴が、晋
    をいったん滅ぼしました。晋は、南に移り、東晋となりま
    した。この時期は、代表的な宗教が、仏教と道教であり、
    時には激しく対立することもあったそうです。
    (この頃を、魏晋南北朝時代と呼ぶそうです。)

    その後、中国の北方では、五胡の建てた、いくつかの国々が
    代わる代わる、支配を交代していましたが、581年に、隋が
    北周にとって代わり、さらに、589年に、隋は南方の陳を滅
    ぼし、中国を統一しました。

    隋の文帝は、均田制・租庸調制・府兵制などを進めました。
    試験によって実力を測る科挙も採用しました。しかし、文帝
    の後を継いだ煬帝は、江南・華北を結ぶ大運河を建設したり、
    したために、民衆の負担が増大しました。このため農民反乱
    が起き、これがきっかけで、618年に隋は滅亡しました。
    日本の聖徳太子が、隋の皇帝・煬帝へ、「日出処天子―」で
    始まる手紙を送ったことは有名です。

    隋に代わって、中国を支配したのが、唐でした。都の長安は、
    当時世界最大級の都市で、西方にはシルクロードによって、
    イスラム帝国や東ローマ帝国などと結ばれ、各国の商人等が
    集まりました。

    唐では、勢力を拡大する際に、地方の投降者を、”節度使”
    に任じて、治めさせました。そのため、各地で土地の私有
    (荘園)が進みました。また、黄巣の乱と呼ばれる、農民の
    反乱がおき、唐王朝の権威は次第に失墜していきました。

    このような中、907年に、節度使の1人である朱全忠が唐を滅
    ぼしました。唐の滅亡後、各地で節度使が争いますが、この
    時代を、五代十国時代といいます。この混乱を、976年に、
    宋が統一することにより静めました。

    宋は、軍隊は文官が率いるという、文治主義をとりました。
    しかし、戦いに不慣れな文官が軍隊を統制したので、軍事力
    が弱く、周辺諸民族との戦いにも負け続けたそうです。
    1127年には、女真族の金による圧迫を受け、宋は江南に移り、
    南宋となりました。南宋時代には、江南の経済が急速に発展し、
    庶民の文化も発達しました。

    13世紀初頭にモンゴル高原で、チンギス・ハーンが、モンゴル
    の諸部族を統一し、ユーラシア大陸各地へ、征服運動を開始
    しました。その結果、北方の女真族の金は1234年に、南方の
    南宋は1279年にモンゴルに滅ぼされてしまいました。1271年、
    クビライは元を国号として中国の支配を進めました。

    元は、宮廷費用などを浪費しました。そのため塩の専売策や
    紙幣の濫発で収入を増やそうとしましたが、経済が混乱し、
    庶民の生活は困窮します。こうした中、各地で反乱が発生し、
    1351年には、紅巾党の乱がおこります。頭角をあらわした、
    朱元璋が、1368年に南京で皇帝に即位し、明を建国しました。
    朱元璋は洪武帝と名を改めました。

    洪武帝の4男、永楽帝によって、現在も世界最大の宮殿である
    紫禁城が北京に築かれました。

    しかし、明の歴代皇帝による贅沢や多額の軍事費用の負担は、
    民衆にしだいに重税となっていきました。各地で反乱がおき、
    その中で頭角をあらわした李自成が1644年に明を滅ぼしました。

    その頃、中国東北地方で女真族のヌルハチが女真族を統一し、
    その子のホンタイジは、内モンゴルを征服し、1636年に清を
    建国します。清は、李自成の軍隊を破り、中国を支配するよう
    になりました。女真族は、満州民族と呼ばれるようになります。

    18世紀が終わるまでには、清との貿易はイギリスが独占して
    いましたが、当時イギリスの物産で、中国に売れるものは
    ほとんどなく、逆に中国の安いお茶は、イギリスの労働者階級
    を中心に大きな需要があり、イギリスは貿易赤字に苦しんで
    いました。

    その対策として、イギリスはアヘンを中国に輸出し、大幅な
    貿易黒字に転じましたが、中国にはアヘン中毒者が蔓延し、
    清朝政府は、アヘン貿易を取り締りました。これに反発した
    イギリス政府は、清に対して、1840年に宣戦布告しました。
    (アヘン戦争の始まり)

    清は敗北し、これ以降、イギリスをはじめとする、ヨーロッパ
    の列強は中国に対して、不平等条約を結ばせます。さらに、
    国内的にも、太平天国の乱(キリスト教徒の一派らによる)
    などの反乱もしばしば起きました。1894年〜1895年にかけて、
    清と日本との間で行われた日清戦争にも、清は敗退しました。

    1911年の武昌において、軍隊蜂起をきっかけにした辛亥革命が
    起こり、各地の省が清からの独立を宣言しました。
    1912年1月1日に、革命派の首領、孫文によって南京で中華民国
    の樹立が宣言されました。北京にいた清の皇帝溥儀は退位し、
    清は滅亡しました。

    <ここからは、中華民国の成立からです>

    その後、中華民国は成立したものの、清朝を打倒
    して革命に参加した勢力同士が、利害をめぐって
    対立するようになり、政局は混乱したそうです。

    当時、臨時大総統であった袁世凱は、1913年に正式
    な大総統となり、国民党を非合法化し、解散を命じ
    ました。1914年には国会を廃止し、大総統の権力を
    大幅に強化した、中華民国約法を公布しました。

    また、袁は列強から多額の借金をして、積極的に
    軍備強化と、経済政策に着手しました。しかし、
    このような外国依存の財政は、のちに列強による
    中国の半植民地化を、進めることにもなりました。

    第一次世界大戦が始まると、欧米からの、借金の
    望みがなくなったため、袁は財政的に行き詰まり
    ました。袁は独裁を強化して、この危機を乗り越
    えようとし、立憲君主制的な皇帝制度へ移行し、
    自身が皇帝となることを望みましたが、国内での
    帝制反対運動が激化し、1916年に袁は失意のうちに
    没したそうです。

    その後、政府の実権をは、国務総理の段祺瑞が握
    りました。段は、日本の援助の下で、1917年に、
    第一次世界戦にも、対独参戦しました。国民党は
    これに激しく対立し、南方の地方軍とともに孫文を
    リーダーとする、広東軍政府をつくりました。

    国民党は袁世凱により非合法化されていましたが、
    孫文が、1914年に中国革命党を東京で結成してい
    ました。1919年には拠点を上海に移し、中国国民党
    と改称し、1921年に、上海で中国共産党が成立して
    いました。

    1924年に、国民党は第一回全国大会をおこない、
    党の組織を改編し、さらに、共産党との合同
    (第一次国共合作)を打ち出しました。

    孫文は、当時、全く機能していなかった国会に代わ
    って、国内の団体代表による国民会議を提唱し、
    1925年には、国民会議促成会が開かれましたが、
    この会期中に、孫文は没しました。そして、広東軍
    政府でも機構の再編が進み、中華民国国民政府の
    成立が宣言されました。

    その一方で、1924年には、蒋介石を校長とする、
    黄埔軍官学校が設立されていました。1925年に、
    国民革命軍が正式に発足され、国民党は蒋介石を
    指導者として、軍事的な革命路線を推し進めること
    となりました。

    1926年に、蒋介石は、広州から北伐を開始し、
    1927年には、武漢に政府を移し、武漢国民政府と
    呼ばれるようになりました。その後、武漢国民政府
    は、反共産党を前面に打ち出して、南京国民政府に
    なりました。

    南京国民政府は、主に上海系の資本家に支えられ
    ていました。結局、1928年、南京政府の国民革命軍は、
    北京の中華民国政府を打倒し、国民政府によって、
    中国は再び統一されました。

    国民政府においては、基本的に国民党の一党独裁の
    立場が貫かれたそうです。1930年代の前半には、
    国民政府に、反旗を翻す形で地方政権が樹立される
    例が多くなり、軍事衝突なども起きたそうです。

    また、この頃、日本は中国東北地方の権益を確保
    しようとしていましたが、これに対しては、反日
    運動が広がっていました。そんな中、1931年に、
    満州事変がおこりました。関東軍による、日本政府
    の意向を無視した、大規模な武力行使でした。

    さらに、日本軍は、1932年に、上海事変を起こし
    ました。列強がそれに注目している間に、日本は、
    傀儡(かいらい)政権として、満州国を東北地方に
    樹立しました。1934年に、満州国は帝制に移行し、
    満州帝国となりました。

    中国共産党は、満州国の建国時に、日本に対して
    宣戦布告をしていました。しかし、国民党との抗争
    に忙しく、中国国民で一致して、日本の侵略に立ち
    向かうことはできませんでした。

    1934年、中国共産党の本拠地であった瑞金は、
    国民党により陥落し、中国共産党は長征と称して
    西部の延安に移動し、組織の再編をはかりました。

    1937年には、盧溝橋事件などをきっかけとして、
    日本軍が中国本土に進出し、中華民国と全面戦争に
    入りました(日中戦争)。

    これに対して、蒋介石は当初日本との戦いよりも、
    中国共産党との戦いを優先していたが、二つの党が
    協力して日本と戦うことになりました。(第二次
    国共合作)

    国民党軍・共産党軍ともに各地でゲリラ戦を行い
    日本軍を苦しめました。加えて1941年に、日本は
    アメリカやイギリス(連合国)とも戦争を開きま
    した。(太平洋戦争)国民党政府は連合国側に所属し、
    アメリカやイギリスなどから豊富な援助を受けること
    となり、日中戦争は泥沼化していきました。

    1945年、ポツダム宣言の受諾とともに、日本が無条件
    降伏することで、事態は終結しました。国民党政府は
    連合国側の戦勝国として、日本だけでなくヨーロッパ
    諸国も租界を返還し、中国の半植民地化は、ここで、
    一応の終わりを見せました。

    しかし、まもなく、国民党と共産党との対立が激化
    して、国共内戦が勃発しました。アメリカからの支援
    が減った国民党に対して、ソビエト連邦からの支援を
    受けていた中国共産党が勝利し、1949年10月1日に、
    毛沢東が中華人民共和国の成立を宣言しました。

    内戦に敗れた、中国国民党が率いる中華民国政府は、
    台湾島に撤退し、現在に至るまで、中国共産党が率
    いる中華人民共和国と、中国を代表する正統な政府
    の地位を争っています。

    1950年には、中ソ友好同盟相互援助条約が結ばれま
    した。この条約で、ソ連が租借していた大連、旅順が
    返還され、中国は、ソ連の経済援助の下で、復興を
    目指すこととなりました。

    1950年には、中国共産党は独立国だったチベットに
    軍事侵攻し全土を制圧しました。そして。1951年に
    はチベット全域が中華人民共和国の実効統治下に組み
    入れられました。

    一方、ソ連との間では、中ソ協定が結ばれ、軍事上の
    対ソ連依存は、さらに強くなりました。

    1958年に、毛沢東は「大躍進政策」を開始し、人民
    公社化を推進しました。当初はかなりの効果をあげた
    かに見えた人民公社でしたが、あまりに急速な人民
    公社化は、都市人口の異様な増大など、深刻な問題を
    引き起こしました。

    1959年と1960年には、天災も重なり、大規模な飢饉が
    中国を襲い、少なくとも2000万〜5000万人以上と言わ
    れる餓死者を出し、大躍進政策は失敗に終わりました。

    1960年代初頭には人民公社の縮小がおこなわれました。
    また、この年、中国共産党政府は、台湾海峡において
    中華民国に対して、大規模な軍事行動を起こしました。
    その結果、アメリカ軍の介入を招き、ソ連のフルシ
    チョフは、中国共産党政府の強硬な姿勢を非難し、
    自国がアメリカとの全面戦争に巻き込まれないように
    努力しました。

    この、ソ連の対応に対して、中国共産党政府は、ソ連
    への不信感を抱き、ソ連から提案されていた、中ソ共同
    の防衛体制を断りました。1959年、ソ連も、中ソ協定を
    一方的に破棄し、1960年には経済技術援助条約も打ち
    切られ、中国のGNPは1%も下落したそうです。

    1964年には、中国は核実験に成功し、軍事的な自立化に
    大きな一歩を踏み出しました。チベットでは独立運動が
    高まっていましたが、政府は運動家に対する拷問など、
    暴力によって弾圧したため、多数の難民がインドへ流入
    したそうです。

    大躍進政策の失敗の後、経済の立て直しを巡る対立から
    1966年に、毛沢東は文化大革命を提唱しました。
    毛沢東の指示により、中央文化革命小組が設置され、
    北京の青少年によって革命に賛同する組織である紅衛兵
    が結成されました。

    文化大革命は、政治だけにとどまることがなく、広く
    社会や文化一般にも批判の矛先が向けられ、反革命派と
    された文化人はをつるし上げられ、反動的とされた文物
    が破壊されたりしたそうです。国内は内乱状態になった
    そうです。

    政府の中央では、周恩来らと文革小組の間で権力闘争が
    おこなわれていました。この時期、軍の影響力は極端に
    増大し、それに伴い、林彪が急速に台頭しました。
    そして、林彪は毛沢東の後継者であると定められました。

    最終的に文化大革命は1976年、毛沢東の死去によって
    終結しました。文化大革命では、各地で文化財破壊や
    大量の殺戮が行われ、犠牲者の数は、数百万人とも数千
    万人とも言われています。

    <文化大革命の失敗、からです>

    一方で、この時期、(1970年代、文化大革命の時)
    ソ連に敵対する中国共産党政府は、同じくソ連と
    敵対する日本やアメリカなどからの外交的承認を
    受け、国連の常任理事国の議席を、台湾島に遷都した
    中華民国政府(国民党政権)に変わって手にするなど、
    国際政治での存在感を高めつつありました。

    また、1976年には、建国以来、毛沢東の一貫した
    協力者であり、穏健派の中心だった周恩来が死亡し、
    その死をいたむ人々が、4月5日の清明節(二十四節気)
    に天安門広場にあつまりました。(第一次天安門事件)

    毛沢東の死後、華国鋒が一時、後を継ぎましたが、
    1978年、登小平(登の文字は本当は右側におおざとが
    入りますが、メールでは文字化けする恐れがあるので、
    登にしています。)が政権を握りました。登小平は、
    政治体制は共産党一党独裁を堅持しつつ、資本主義経済
    導入などの改革開放政策をとり、近代化を進めました。
    (社会主義市場経済、登小平理論)。登小平は、党幹部
    に対して、「四化」(革命化、若年化、知識化、専門化)
    を求めました。

    1989年に、北京では、1980年代の改革開放政策を進め
    ながら失脚した胡耀邦の死を悼み、民主化を求める
    学生や市民の百万人規模のデモ(第2次天安門事件)が
    起きました。しかし、これは政府により武力鎮圧され
    ました。一連の民主化運動の犠牲者数は、数百人から
    数万人に上るといわれています。しかし中国共産党
    政府はこの事件に関しては、国内での正確な報道を
    許していません。

    この事件の後も、中国共産党政府は、情報公開に
    対して統制を加えています。2003年には国内でSARSの
    大発生がありましたが、このときも政府は虚偽の発表
    を行なうなど問題の隠蔽を繰り返したそうです。

    天安門事件のあと、外資の流入には急ブレーキがかかり
    ましたが、1990年代には、江沢民政権のもとで、登小平
    路線に従い、経済の改革開放が進み、安い人件費を生か
    した工場誘致で、「世界の工場」と呼ばれるほど経済は
    急成長しました。

    1997年に登小平が死去したあとも、登小平路線はひき
    つがれ、江沢民体制のもとで進行しました。1998年
    以後は、李鵬にかわって国務院総理(首相)となった
    朱鎔基が、経済政策を担当しました。

    朱首相は、国有企業、金融制度、行政機構の三大改革
    をかかげました。

    1997年にイギリスから香港が、1999年にポルトガルから
    マカオが、中華人民共和国に返還されました。敵対して
    いた、中華民国(台湾)との間にも経済的な交流が進み、
    直行便が就航しました。その結果、香港に隣接する地域
    や台湾の対岸地域を中心にして経済発展が進みました。

    しかし、東部沿海地域にくらべて内陸部の経済発展が
    相対的に遅れ、東西の経済格差が増大していきました。
    このため、2000年3月に開かれた、全国人民代表大会
    (全人代)の会議では「西部大開発」が重点目標に定め
    られました。

    なお、台湾との関係は、複雑です。一方では、潤沢な
    台湾資本の流入を受け入れ、他方では、台湾独立の声に
    警告を発しています。1996年の台湾総統選挙の際には
    台湾近海で大規模軍事演習をおこない、ミサイルを発射
    して国際的な非難を浴びました。

    2000年の、台湾総統選挙の際にも、独立の動きを座視
    しないと声明して干渉しました。台湾は中国の一部で
    あり独立国家ではないとする立場を堅持しつつも、経済
    交流を基軸として両者の関係は緊密化しているようです。

    現在、中国経済の動向は、良くも悪くも注目されてい
    ますが、低賃金による大量生産を売り物にしてきた経済
    成長は、賃金上昇・東南アジアやインドの追い上げなど
    で、限界に達しているともいわれています。

    また、クリントン大統領と江沢民国家主席の会談で、
    米中関係の修復が図られ、ロシアとの関係も変化して
    います。2001年にロシアを訪問した江沢民国家主席は
    プーチン大統領と会談し、1980年に失効した中ソ友好同盟
    相互援助条約にかわる、新たな「中ロ善隣友好協力条約」
    に両者が署名したそうです。

    さらに、2001年、中国はWTOに加盟しました。これに
    よって、中国経済は世界の自由貿易体制と一体となり
    ました。

    なお、チベット自治区では歴史的なチベットの主権を
    主張するダライ・ラマの亡命政権が海外に存在し、中国
    共産党政府が不法な領土占拠をしていると訴えるとともに、
    独立運動が継続されています。チベット人の生活は困窮し、
    多数の難民が隣国のインドに流入していました。

    先日の、2008年3月14日には、チベット自治区ラサで、
    中国政府に対する僧侶や市民の抗議行動が激化し、中心部
    の商店街から出火、警察が鎮圧に当たり多数の死傷者が
    出た事件は、世界各国のメディアで報道されました。

    共産党のあり方にも大きな変化がおきました。2000年の
    広東省視察の際、江沢民は、新たな時代に対応して党は、
    (1)先進的な社会生産力の発展(2)先進的な文化の進む方向、
    (3)もっとも広範な人民の利益を代表する力をもたねばなら
    ないと訴えました。「三つの代表」

    江沢民総書記は経済発展を第一の目標に掲げ。21世紀の
    最初の20年で、「いくらかゆとりのある社会」を築くとし、
    GDPを2020年までに、2000年の4倍にする目標を掲げました。
    (年平均7%の成長)

    産業分野では、ハイテク産業を発展させ第3次産業の
    ウェイトをあげること、所得水準の低い内陸を引き上げる
    ために、西部開発を推し進めることが確認されました。

    同時に、農業振興や失業対策などに政策の重点をおき、
    高額所得者への課税を強化する等も、盛りこまれています。

    2003年に、国家主席は江沢民から胡錦濤へ、そして首相は
    朱鎔基から温家宝へとバトンタッチされました。中国に
    とっては、江沢民から胡錦濤への国家主席の交代が、
    スムーズに行なわれた事は、画期的な事だったようです。

    胡錦濤は、江沢民の「三つの代表」思想を堅持して、
    開放・改革と社会主義現代化路線を進めることになりま
    した。また、新首相となった温家宝は、朱鎔基が掲げて
    きた、経済発展最優先の三大改革を引き継ぎつつ、拡大
    する都市と農村の経済格差を是正するために、農業及び
    農村経済を発展させることを重点課題としました。

    日本との関係では、2004年に、統計では、日本の最大の
    貿易相手国が中国になる等、経済関係は大きく発展しま
    したが、政治関係では小泉首相の靖国神社参拝をめぐり
    冷え込み、2005年になって、日本の国連安全保障理事会
    の常任理事国入りが現実味を帯びると、歴史教科書問題
    や東シナ海開発問題もからんで、反日デモが北京や広州
    など主要な都市でおきました。

    中華人民共和国は、いまだに中国共産党政府による、
    一党独裁から脱却できず、多数の問題が山積している
    そうです。政府は、中華人民共和国の分裂を促すような
    動きや、共産党の一党体制を維持する上で脅威となる動き
    に対しては強硬な姿勢をとり続けています。2005年の
    反国家分裂法成立などはその一例だそうです。また、
    急激な経済成長とともに、貧富差の拡大や環境破壊が
    問題となっています。