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    <キプロスの歴史>

    キプロス島は、古くから、ヨーロッパとアジア、
    そしてアフリカを結ぶ、地中海上の交差路として
    地理的にとても重要な位置にあり、歴史的にみても
    大きな役割を果たしてきました。

    紀元前7000年の新石器時代に、人の居住が始まった
    そうです。その後、紀元前1500年頃には、最初に鉄を
    使い始めたことで知られる、ヒッタイトがこの島に
    やってきたそうです。
 
    紀元前1450年頃には、古代エジプトの支配下に入り
    紀元前1400年頃には、アカイア人(ギリシャ系)が
    入植してきました。その後、アカイア人はキプロス人
    のルーツの一つになりました。

    紀元前800年もには、地中海全域を舞台に活躍した、
    フェニキア人が入植し、さらに、紀元前709〜670年
    には、メソポタミアを支配した、アッシリアによる
    支配も受けたそうです。

    紀元前560年頃には、エジプト王国に、紀元前525年頃
    には、アケメネス朝ペルシャ帝国、そして、紀元前
    300年頃には、プトレマイオス朝エジプト王国、さらに
     紀元前333〜325年頃には、マケドニアのアレクサンダー
    大王、紀元前76年には、ローマに支配されました。

    ローマ帝国による支配の下でキリスト教が伝えられ、
    島にはキリスト教文化が繁栄しました。ローマ帝国の
    分裂後、395年に、東ローマ帝国(ビザンチン帝国)
    の支配下に入り、1192年まで支配が続いたそうです。

    この間、488年には、教会による自治が認められ、また
    650年頃には、アラブ・イスラム勢力が侵攻しました。

    1191年には、十字軍の途上にこの島に立ち寄った、
    イングランド(イギリス)の王で、獅子心王として
    知られる、リチャード1世によって征服されました。

    1192年、リチャード1世は、キプロス島をフランス系
    貴族であり、テンプル騎士団(十字軍の主力)である
    ギー・ド・リュジニャンに売りました。こうして、
    フランク人(西ヨーロッパ人カトリック教徒)の支配
    するキプロス王国が建国されました。しかし王国は、
    1470年に相続者を欠いたことから断絶し、1489年に、
    ヴェネツィア共和国が、キプロスを手に入れました。

    1571年には、オスマントルコ帝国の王、スルタン・
    セリム2世が、ヴェネツィアからキプロスを奪って征服
    しました。この時以来、キプロスは、オスマントルコ
    の支配下に入りました。

    1830頃には、キプロス島では、ギリシャへの帰属運動
    (エノシス)も始まっていました。

    その後、エジプトの植民地化を進めていたイギリスは
    この島の戦略的価値に目をつけていました。そして、
    1877年には、イギリス軍が、ロシアからトルコを防衛
    するという口実で、キプロスに軍を駐留させました。

    1878年に、露土(ロシア、トルコ)戦争後、ベルリン
    会議において、イギリスは、オスマン側に便宜を図った
    代償として、キプロス島の統治権を獲得し、租借権を
    得ました。そして、1914年には、第一次世界大戦で、
    オスマン帝国が、イギリスに敵対したのを理由として
    イギリスがキプロス島の併合を始めました。

    1925年に、オスマントルコが第一次世界大戦で敗北
    した結果、キプロスの領土は分割され、イギリスの
    統治領(直轄植民地)となりました。

    1955年に入ると、イギリスに対して、ギリシャ併合派、
    トルコ併合派による独立闘争が高まりました。
    この動きを受けて、イギリス、ギリシャ、トルコの間
    で協議が持たれるようになります。

    そして、1959年に、チューリッヒ・ロンドン協定に
    おいて、キプロスは、ギリシア系大統領とトルコ系副
    大統領のもとで、独立した共和国を組織するものとし、
    イギリス、ギリシア・、トルコの三国が、それぞれ
    軍隊を駐留させる権利を有する、と決定されました。

    この協定に従い、1960年に、キプロスは共和国として
    独立しました。しかし、次第にギリシア人とトルコ人
    の対立が過激化しはじめ、紛争に火がつきました。

    特に、1963年には、トルコ系住民による、民族分離
    独立運動の闘争等、種々の民族紛争がおこりました。
    1964年には、国連キプロス平和維持軍(UNFICYP)が
    派遣される事態になりました。

    1974年、ついにキプロス戦争が勃発しました。
    ギリシャの支援を受けた、ギリシャへの併合を求める
    強硬派がおこしたクーデターがきっかけでしたが、
    トルコ軍が軍事介入して北キプロスを占領しました。

    トルコの占領により、クーデター政権(EOKA)や、
    これを支援したギリシャの軍事政権も倒壊しました。

    その後、トルコ占領地域には、トルコ系住民の大半、
    非占領地域には、ギリシャ系住民の大半が流入して、
    民族的にも南北に分断されることになりました。  

    1975年には、北部は独立色を強め、「キプロス連邦
    トルコ人共和国」が発足しました。これに対して、
    1977年の、最初の南北統合交渉は決裂しました。

    1983年に、トルコが島の北側を「北キプロス・トルコ
    共和国」として、トルコ系住民の独立国にすることを
    宣言しました。この国は、国際的に承認された国では
    ありませんが、国連が国境に駐留し、監視しています。

    その後も、南北キプロスの間では国際連合の仲介により
    和平交渉が何度も行われました。しかし、まだ解決を
    見ていません。

    このような中、1997年に、南部のキプロス共和国がEU
    加盟候補国となりました。そして、2004年にはEU加盟
    が認められる、ことになりました。

    また、2004年には、国連の仲介により南北大統領の統合
    住民投票の実施協議が始まりました。しかし、南北同時
    住民投票の結果、ギリシャ系側(キプロス共和国側)の
    反対多数により、南北大統領統合案は、否決されました。

    2006年には、キプロス共和国が総選挙を実施し、やはり
    統合反対派が勝利しました。一方、トルコは、EUへの
    加盟が認められることを望んでいましたが、トルコが
    キプロス共和国を承認しないため、EU側がトルコとの
    加盟交渉を一部凍結しています。

    トルコが、キプロス共和国を承認するのか、EUへの
    加盟を優先するのか、その動向が注目されています。