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    <東ティモールの歴史>

    ティモール島は16世紀には、ポルトガル植民地でした。
    その後オランダが進出し、ポルトガルとオランダとの
    間で、ティモール島をめぐって争いが始まりました。
    その結果、1859年のリスボン条約などにより、ポルト
    ガルは島の東半部の支配を維持し、オランダはティモ
    ール島の西半分を統治することになりました。

    ポルトガルによる植民地支配の下、東ティモールでの
    生活は困難を極めたそうです。住民の非識字率は高く、
    東ティモールは、ポルトガル政府に反抗的な政治犯を
    送り込むこむ刑罰植民地とされ、植民地官憲の暴政と
    強制労働は、暴力も有りとする文化的風土をこの地に
    もたらしたそうです。

    ポルトガルが中立を守った第二次世界大戦時には、
    ポルトガルの主権を無視して、オランダとオースト
    ラリアの軍隊がティモール島に進駐していました。

    日本軍は、当時はオランダ領の、東インド(後のインド
    ネシア)と合わせ、ティモール島を占領したそうです。
    日本軍と、ティモール島を守るオーストラリア兵、
    それを支援する住民の間でゲリラ戦が繰り広げられ、
    その間、犠牲になった東ティモール住民は6万人にも
    のぼるそうです。

    日本の敗戦後、オーストラリア軍の進駐を経て、再び、
    東ティモールは、ポルトガル総督府による支配が復活
    しました。

    一方の西ティモールは、第二次世界大戦直後の1945年、
    オランダ領東インドがインドネシアとして独立を宣言
    したのに続き、1949年にインドネシアの一部として独立
    しました。

    1974年には、ポルトガルで左派を中心としたカーネー
    ション革命が起こりました。植民地の維持を強く主張
    した従来の保守独裁体制が崩壊し、代わりに、左派将校
    の新政権は、植民地の放棄と民主化を宣言しました。

    東ティモールでも独立への動きが加速し、マルクス主義
    (共産)色の強く、青年層が中心メンバーのフレティリン
    (FRETILIN:東ティモール独立革命戦線)が、その中心
    となりました。

    これら動きに対しては、東ティモールの領有権を主張し、
    反共主義を国の方針とするインドネシアのスハルト政権
    は容認せず、反フレティリンの右派勢力を通じ、介入を
    強めていきました。

    フレティリンの他には、植民地の役人や農園主が中心で
    ポルトガルとの連邦を求めるUDT(ティモール民主同盟)、
    インドネシアとの合併を主張するアポデティ(APODETI:
    ティモール人民民主協会)などの政党も結成されました。

    インドネシア政府は、アポデティ支持の宣伝工作をくり
    ひろげましたが、フレティリンとUDTはこれに反発します。
    そして、1975年に両党は連合を結成しましたが、すぐに
    UDTは、フレティリンの農地改革要求などに不安をいだき、
    連合を破棄しました。
 
    こうした混乱の中で、ティモール人兵士に支持された
    フレティリンが、シャナナ・グスマンの指導のもとに
    1975年に東ティモールを制圧し、民主共和国の独立宣言
    を行いました。これに対し、2日後には、アポデティと、
    UDT、その他2党はインドネシアへの合併を宣言しました。

    一方、インドネシア軍は、西ティモールから侵攻を開始、
    フレティリンの支配地域を攻撃しました。1週間後に、
    インドネシア軍は、首都のディリを占領しました。

    インドネシア軍の行動に対して、ポルトガルはインドネ
    シアとの外交関係を断絶し、国連安全保障理事会の開催を
    要請しました。その10日後には、アポデティ、UDT、その他
    2党は、東ティモール暫定政府の樹立を宣言しました。

    これらの動きに対して、5日後に、国連安保理はインドネ
    シア軍の撤退を要求する決議を採択しました。しかし、
    東ティモール住民会議が開催され、インドネシアへの合併
    請願が決議されると、これを受け、スハルト大統領は合併
    法案に署名し、結局、1976年には、インドネシアは東ティ
    モール全土を27番目の州として併合宣言しました。

    国連総会では、この占領を非難する決議が直ちに採択され
    ましたが、米・欧・豪・日など西側の有力諸国は反共産党
    の立場をとるインドネシアとの関係を重視し、併合を事実
    上黙認したそうです。また、インドネシア政府は内政問題
    として、国連の決議を拒否しました。

    その後は、フレティリンとインドネシア軍との戦闘が続く
    ようになりました。スハルト政権は東ティモールの抵抗に
    対し激しい弾圧を加えたため、1980年代までには、多くの
    東ティモール人が命を失い、その数は、20万人にのぼると
    言われています。

    1991年には、デモ隊にインドネシア軍が無差別発砲し、
    400人近くを殺したといわれる、サンタクルズ墓地での事件
    (ディリ事件)が、住民の大量虐殺事件として、世界的に
    知られることになりました。この事件は、人権抑圧として
    国際的な注目を集めました。

    1992年、グスマンは逮捕され終身刑に処されました。
    (のち20年に減刑、1999年9月に釈放)しかし、1996年には、
    東ティモールの独立運動を進めるカトリック司教カルロス・
    ベロと、フレティリンの対外代表で、独立運動家のラモス・
    ホルタが、ノーベル平和賞を受賞し、インドネシア政府は
    対応に苦慮することになったそうです。

    1998年にインドネシアでの民主化運動で、スハルト政権が
    崩壊すると、事態は動き出しました。国連の仲介で開かれた
    インドネシアとポルトガルとの外相会談で、インドネシア
    政府は、「広範な自治権にもとづく特別な地位」を東ティ
    モールにあたえることを表明しました。もし、この自治案を、
    東ティモールが拒否すれば、独立を容認すると決定しました。

    そして、1999年に、国連(UNAMET)の監督のもと、自治案
    賛成(残留)か反対(独立)かの意思を問う直接投票住民投票
    が行われ、反対が78%という多数で、独立が決定しました。

    しかし、これに反発したインドネシア治安当局は、残留派の
    民兵を支援し、ディリを中心に略奪と暴行を続けさせ、多く
    の住民が殺害されました。国連は、オーストラリア軍中心
    の多国籍軍を派遣して治安にあたり、騒乱は静まりました。
    (東ティモール紛争)暴力行為は収拾しましたが、多くの
    難民が西ティモールに逃れ、強制的に連れ去られました。

    住民投票の結果をうけて、国連東ティモール暫定行政機構
    (UNTAET)が設置されました。憲法制定や議会選挙など、
    主権国家として必要な行政機構が整備されるまで、活動を
    続けることとなりました。ホルタが、UNTAETの外相職に
    つきました。
    
    一方、独立をめざす諸派は1998年、東ティモール民族抵抗
    評議会(CNRT)を結成し、議長にフレティリン出身で獄中の
    グスマンを選びました。

    UNTAET、CNRT、キリスト教会、残留派政治組織の協議機関
    として国民諮問評議会(NCC)がつくられ、新国家建設に必要
    な法律の制定や行政機関の設置を開始しました。

    しかし、独立派と残留派との間の憎悪は続いていました。

    2000年には、西ティモールにあった、東ティモール難民
    キャンプで、残留派民兵が国連やNGO(非政府組織)の事務所
    を襲撃し、国連職員3人が殺害されました。

    同年、国民諮問評議会(NCC)は東ティモール民族評議会
    (ETNC)に改組され、グスマンが議長に選出されました。

    そして、UNTAETなどと連携し、建国の準備活動が再開され
    ました。2001年に、グスマンが議長を辞任することになり
    ましたが、初の制憲議会選挙が実施され、投票は平和裏に
    行われました。全閣僚が東ティモール人で構成される第2次
    暫定内閣が発足し、マリ・アルカティリ(フレティリンの
    幹事長)が、主席閣僚に就任しました。

    建国の討議がすすむ中、西ティモールからの避難民の帰還
    も進み、数万人の内、3000人を超える人々が帰還しました。

    その後、2002年3月には、憲法案が採択され、大統領選挙で
    グスマンが初代大統領に当選しました。2002年5月20日には
    東ティモールは国連から権限をすべて委譲され、独立国家と
    なりました。大統領にはグスマン、首相にはアルカティリが
    就任、ホルタが副首相兼、外相になりました。

    ディリで開催された独立式典には、92カ国の要人が参加し、
    インドネシアのメガワティ大統領も自国内の反対をおしきり
    出席したそうです。

    同日中に、アメリカ、中国、日本なども、東ティモールの
    独立を承認し、国交を樹立しました。国連にも加盟を表明し
    ました。

    使命を終えたUNTAETは解散され、国連はその活動をひき継ぐ
    ために、国連東ティモール支援団(UNMISET)を設置しました。
    また、旧残留派の民兵と、住民の和解をうながすため、真実
    和解委員会も設置されました。

    日本の自衛隊も国連平和維持活動(PKO)として派遣され、
    国連と協力して活動を行ったそうです。

    2002年7月、グスマンはメガワティ大統領とジャカルタで
    会談し、正式に国交を樹立しました。国連加盟が承認され、
    191番目の加盟国となりました。

    その後、独立後3周年をむかえた2005年5月には、UNMISETも
    解散し、国連平和維持軍も6月までにすべて撤退しました。
    そして、国連の平和構築ミッション、UNOTIL(国連東ティ
    モール事務所)が設立されるほど、国内は安定化しました。

    ところがそれから1年後の2006年、西部出身の軍人約600人が
    昇級や給料で東部出身者との間で差別があるとして、待遇の
    改善と差別の廃止を求め抗議し、ストライキを起こします。
    政府はスト参加者全員を解雇しましたが、不服の解雇軍人が
    蜂起し、国軍との間で戦闘が勃発し、ディリは混乱しました。

    政府はオーストラリア、ニュージーランド、マレーシア、
    ポルトガルの4カ国に軍や警察部隊の派遣を要請しました。
    この暴動を受け、同年8月には国連東ティモール統合派遣団
    (UNMIT)が設立され、平和構築ミッションから、再び、平和
    維持活動へと逆戻りしてしまいました。

    グスマン大統領は非常事態宣言をして、アルカティリ首相に
    代わって、事態の収拾にのりだしました。首相はグスマン
    大統領の対応を非難しましたが、首相みずからが指示して、
    民兵に数百丁の銃をわたし、ディリの騒乱をあおったことが
    発覚し、辞任に追い込まれました。

    フレティリンは党中央委員会を開き、ホルタ外相兼国防相を
    次期首相候補として推薦し、大統領がホルタを新首相に任命し、
    内閣が正式に発足しました。

    ホルタ首相は、ディリ市内をはじめ、国内全体の治安の確保、
    国内避難民の帰還促進、そして、帰還後の生活再建支援など
    インフラ建設などを通じて東ティモール経済をたてなおし、
    アジアの最貧国からの脱却をめざすと表明しました。

    2007年には東南アジア友好協力条約(TAC)に加入し、また、
    2010年までの、ASEANへの加盟を目指しています。

    2007年、独立後初の国政選挙となった大統領選が実施され
    ました。その結果、ホルタが圧勝して第2代大統領に就任し
    ました。フレティリンのダ・シルバを首相とする新内閣が
    発足しました。

    その2ヵ月後、独立後初の国民議会選挙が実施されました。
    グスマン前大統領は、新党である、東ティモール再建国民
    会議(CNRT)を結成し、この選挙に臨みました。

    独立以来、フレティリンは第1党でしたが、第2党のグスマン
    が率いる、このCNRTを中心に、反フレティリンで一致した
    野党4党が連立で合意し、グスマン前大統領が首相に任命され、
    グスマン連立政権が発足ました。

    これに対しては、フレティリンとその支持者たちの反発は強く、
    各地で、熱狂的なフレティリン支持者による抗議行動が暴徒化
    しました。フレティリンも就任式をボイコットするなど、政局
    は混乱しました。首都のディリなどでは、民家への放火や投石
    が多発し、東部のバウカウ県では国連平和維持活動に携わる、
    国連警察の車列が、発砲を受け車両1台が燃やされたました。

    国連警察、東ティモール警察、多国籍治安部隊(主に豪軍)、
    東ティモール国軍により暴動は沈静化しましたが、数日の間に
    100名以上の逮捕者が出たそうです。

    2008年2月11日、ホルタ大統領やグスマオ首相が、2006年の
    国軍反乱以降に反政府勢力となったアルフレド・レイナド少佐
    が指揮する武装集団に襲撃されました。レイナド少佐は死亡し、
    ホルタ大統領は重傷を負いましたが、オーストラリアの病院で
    の治療により一命を取り留めました。治安の悪化が懸念されて
    います。