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    <グルジアの歴史>

    紀元前6世紀には、グルジアの周辺地域は、オリエントを
    統一したアケメネス朝ペルシャの一部でした。その後、
    グルジアの歴史は、主に西グルジアと東グルジアに分か
    れていきます。

    紀元前6世紀に、西グルジアにコルキス王国(Egrisi王国)
    が成立し、栄えていました。

    そして、紀元前1世紀には、ローマの支配に入りました。

    ローマが支配する頃から、東グルジアにカルトリ王国
    (イベリア王国とも言われる)が興り、グルジアの歴史
    をつくりました。

    4世紀に入ると、キリスト教が普及しだし、6世紀には、
    グルジアは、キリスト教に改宗したそうです。

    6世紀頃になると、ラジカ王国として知られていた、
    古代のコルキス王国は、ビザンチン帝国(東ローマ帝国)
    の支配下に入り、カルトリ王国はペルシャの支配下となり
    ました。

    ラジカ王国は、9世紀になると、アブハジア人を主体と
    して、アブハジア王国として独立しました。
    カルトリ王国は、9世紀に、アショト・バグラトゥニに
    より、ペルシャの支配から解放されました。

    しかし、その後、10世紀には、グルジアはアラブの支配下
    に入ることとなりました。

    1089年頃、グルジアは統一されて王国(バグラト朝)と
    なり、1184年〜1213年には、タマラ女王の下で繁栄した
    そうです。しかし、再び、ビザンチン帝国の属国となって
    しまいました。 その後、長い間ビザンチン帝国の一部で
    あったため、文化も、大きな影響を受けているそうです。

    13世紀〜14世紀には、モンゴル、チムール、タタール
    (北アジアのモンゴル高原から東ヨーロッパにかけて、
     幅広い地域にかけて活動したモンゴル系、テュルク系、
     ツングース系の様々な民族)による侵攻を受けました。

    16世紀〜18世紀には、ペルシャとトルコのオスマン帝国
    の間での領有権争いの的となり、西部はオスマン帝国、
    東部はペルシャの支配下となりました。

    その後、さらに、1783年には、東グルジアはロシア帝国
    の保護領となり、1801年には、ロシア帝国は東グルジア
    を併合しました。

    1873年の、露土戦争(ロシア帝国とオスマン帝国の戦争)
    の結果、西グルジアも、ロシアに帰属することとなりま
    した。

    ロシア革命後の1918年、グルジアはロシアから独立宣言
    をしました。1919年には、ザカフカス連邦共和国が成立
    します。メンシェビキという、ロシア社会民主労働党が
    分裂して形成された、社会主義右派が実権を握りました。

    1921年になると赤軍が侵攻してきました。1922年には、
    ソビエト政権が成立したことにより、グルジアは、
    アルメニア、アゼルバイジャンとともに、ザカフカス・
    ソビエト社会主義連邦共和国を形成、ソ連邦に加盟する
    ことになりました。

    1936年には、スターリン憲法により、独立した連邦構成
    共和国に昇格しましした。ちなみに、グルジアは、
    スターリンの出身地になります。

    1991年1月6日に、反ガムサフルディア派が大統領官邸を
    占拠し、ガムサフルディア大統領はグルジアから脱出
    しました。 また、4月9日には、ソ連邦の解体により、
    グルジアは共和国として独立宣言をしました。

    翌年1992年になると、国家評議会創設されました。
    また、シェヴァルナッゼ(1985年から1990年までソ連邦
    の外務大臣)が帰国し、国家評議会議長に就任します。

    1995年には、シェワルナゼが大統領に就任し、2000年に
    再選され、2003年まで、シェワルナゼが最高権力者でした。

    しかし、2003年の議会選挙の開票には、出口調査などに
    よって不正の疑惑が指摘されることになります。
    この選挙に基く議会が召集されますが、反対派の議員が
    ボイコットし、議会前には2万5千人の反対派市民が集結
    しました。

    開会の辞が読み上げられる中、市民は議場に乱入し、
    シェワルナゼ大統領は議会から逃げ、結局、大統領を
    辞任しました。この騒ぎは、バラ革命と呼ばれます。

    代って、野党である、ブルジャナゼ・民主主義者の党首
    のニノ・ブルジャナゼが、暫定大統領に就任しました。
    ブルジャナゼ暫定大統領は、従来の閣僚(内相・国務相・
    財務相・外相など)を一掃しました。

    2004年に行われた大統領選挙では、野党「国民運動」の
    サーカシビリが大統領候補になりました。

    これに対し、「労働党」のナテラシュヴィリ党首が議会
    選挙のやり直しに反対し、また、ロシアを後盾にして、
    アジャリア自治共和国を、事実上、グルジア中央政府から
    独立させて支配してきた、アバシゼ最高会議議長も、
    非常事態宣言を発令するなどサーカシビリに対して、反対
    する動きが相次ぎました。

    しかし、結局、大統領選挙の結果はサーカシビリの圧勝に
    終わり、これに反対していた野党勢力も、一転して選挙結果
    を受け入れた為、一連の混乱も収拾したそうです。

    議会選挙でも、「国民運動」が得票率75%で大多数の議席
    を獲得し、最大与党に躍進しました。

    しかし、アバシゼ最高会議議長は、これらの選挙結果を
    依然として認めず、アジャリア自治共和国と、グルジアの
    交通路を封鎖するなどの措置を取り、グルジア中央政府と
    の関係は、一触即発の状態となったそうです。

    アバシゼ議長とサーカシビリ大統領の会見も行われ、一時は
    事態が収拾するかとも思われたそうですが、アジャリア側が
    4月末より橋を爆破するなどの措置に出たため、中央政府は
    国境や港湾を封鎖するなど圧力を加えたそうです。

    一方、アジャリアの首都であるバトゥミでは、サーカシビリ
    大統領支持派による、アバシゼ議長の退陣要求デモが1万数
    千人規模にまで膨れ上がり、ますます緊迫した状況となり
    ました。

    ついに、ロシアのセルゲイ・イワノフ国防相が、アバシゼ
    議長と会見し、辞任を勧告しました。これにより、アバシゼ
    議長は辞任しました。中央政府は、アジャリアに、大統領
    直轄統治を導入し、アバシゼ議長の元で続いてきた事実上の
    独立状態は終わったそうです。

    2007年には、与党サーカシビリ政権に対する、野党デモの
    鎮圧を期に、グルジア全土で非常事態宣言が発令されるなど、
    現在も政情不安は、現在でも続いているようです。