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    <香港の歴史>

     現在の香港島は、九龍半島と海をへだてて離れていますが、
    約1万年前には、陸地続きの平野の一部だったそうです。
    現在のような地形になったのは6000年前のことで、すでに
    その頃には、人が住んでいたそうです。BC3500年〜2000年
    の新石器時代の石器が、発掘されているそうです。

    紀元前3世紀の、秦の時代(始皇帝)には、広州から香港に
    かけての一帯は、南方系の古越族がいたそうですが、秦に
    武力で併合されたそうです。始皇帝の死後、南越国(今の
    中国南部から、ベトナムの辺りの国)の支配に入りました
    が、その後、南越国は漢の武帝に滅ぼされ、香港周辺も、
    漢の支配下になります。

    香港を含む華南一帯では、古くから北の漢民族と原住民と
    の間で混血が進み、漢の文化や技術がもたらされました。

    特に10〜13世紀の宋の時代には、中国の華北では、金や元
    などの北方民族の侵入が相次ぎ、多くの漢民族が南へ移動
    したため、香港一帯にも移民が流入しました。

    香港の原住民と呼ばれる人々は、このように早くに香港一帯
    に移り住んだ漢民族のほか、客家、蛋家(蛋民)等と呼ばれ
    る人々がいます。客家は、唐の時代から華北から南下を始め、
    「中国のユダヤ人」とも呼ばれるそうです。清朝の時代にも、
    香港周辺の荒廃した村を復興させるために、現在の広東省や
    福建省に暮らしていた客家が、開拓民として移住させられた
    そうです。

    蛋家は、海路を伝って香港一帯に移り住んだ人々だそうです。
    蛋家は、浙江省周辺の越族の一派で、8世紀の唐の時代の頃、
    勢力を拡大した漢族に追われて海上生活をするようになり、
    香港の沿岸沿いに南下したそうです。蛋家の人々は、船の上
    で暮らすため、水上人とも呼ばれているそうです。近年では
    香港では沿岸の埋め立て工事が進み、蛋家などの水上生活者
    の数は激減しているそうです。(1997年2万人→2003年4600人)

    その後、8世紀には唐、17世紀には明に属することになり、
    香港一帯が属する行政区の名称は幾度か変わりました。
    (南海県(秦)→宝安県(唐)→東莞県(唐、明)→
     新安県(明))1644年に、明朝が李自成の反乱で滅ぶと、
    その後、満洲族(女真族)が南下して北京を取り、新朝を
    興した際に、各地で明朝の遺臣たちの抵抗が起きました。
    中でも台湾の鄭成功の抵抗が大きかったため、清朝は抵抗
    の拠点をつぶすために、1661年に新安県を撤廃しました。
    香港周辺は荒廃しましたが、鄭氏が7年後に滅んだ後、新安
    県は復活し、香港一帯は再び新安県の一部となりました。

    1841年に、清朝とイギリスの間にアヘン戦争が勃発します。
    清朝が敗北し、翌年1842年の8月に締結された南京条約で、
    香港島はイギリスに割譲され、植民地となります。
    その後、中国の広西でフランス人宣教師が清朝官憲によって
    殺害されたことをきっかけに、イギリス・フランス連合と、
    清朝の間でアロー戦争が起こり、この戦いでも敗北した清朝
    は、1860年に締結された北京条約で、九龍半島の南端などを、
    イギリスに割譲し、香港の植民地化は進みました。

    その後も、イギリスの植民地化は止まらず、さらに周辺の
    地域を、清朝がイギリスに、99年間租借する取り決めがされ
    ました。その一帯は、租界(新界)と名づけられました。なお、
    この取り決めで租借地の範囲に含まれていた九龍城砦などは、
    清朝の軍事、物流の要衝だったため、清の領土として残され
    ましたが、後に無法地帯となり、違法建築のビルが密集する、
    悪名高い場所となりました。1993年に取り壊され、現在は公園
    になっているそうです。

    香港が植民地からされると、アヘン貿易で有名なジャーディン
    ・マセソンやデント商会など、イギリス系の貿易会社が拠点を
    構え、新しい職や商売を求めて中国人やイギリスの植民地の
    インドからも、イギリス人の補佐役としてインド人も香港に
    移ってきたため、1841年には、人口が7500人程度の辺境の田舎
    にすぎなかった香港は、わずか4年後には24000人程に増えた
    そうです。経済的にも、1865年創設の香港上海銀行が、極東で
    最大の銀行に発展し、地域通貨として初期に、1935年には香港
    ドルが発券されています。

    1941年末に太平洋戦争が勃発し、広州方面から日本軍が南下し
    香港に侵入し、九龍半島を制圧後、香港島に上陸して陸上戦と
    なりました。18日間に渡るイギリス軍と激戦の末、同年12月25日
    のクリスマスにイギリス軍が降伏します。この日のことを、
    イギリス人は、「ブラック・クリスマス」と呼んだそうです。

    日本は、香港を軍政下に置き、香港ドルを廃止し、軍票を発行
    するなど香港経済を混乱させ、食料や燃料が不足し、町が荒廃し
    て多くの住民が香港を逃げたそうです。また、日本軍は急速な
    皇民化教育や、香港の地名を日本化したりしたため、1945年に
    日本が敗戦し、無条件降伏するまでの3年8カ月の間を、香港では
    「暗黒の3年8カ月」と呼んでいるそうです。今でも、香港では
    日本の戦争責任を訴える声は強いとか。日本軍が占領する前に、
    160万人の人口を抱えていた香港は、1945年の終戦時には人口が
    60万人程度にまで減少したそうです。

    1912年に清朝が倒れ、中華民国が誕生して以後、中国側は清と
    イギリスが結んだ不平等条約が無効であるとして、香港の返還を
    求めていたそうです。そのような、背景から、蒋介石が率いる、
    南京国民政府は1945年の日本軍の降伏を受け、イギリスに対して、
    香港の中国返還を求めました。しかし、イギリスは受け入れず、
    南京国民政府軍が香港に到着するよりも早く、イギリスの太平洋
    艦隊を香港に到着させました。南京国民政府は、これに強く反発
    しましたが、結局、中国国内で国共内戦が激化したために、香港
    問題はそのままになりました。中華民国と違い、中華人民共和国
    は、香港の主権回復を求めず、むしろイギリスとの国交回復を
    求めたため、イギリスは1950年に、中華人民共和国を承認しまし
    た。これは、西側諸国としては最も早い中国承認だったそうです。

    日本の降伏によって中国から香港へ人々が戻り、終戦直後1945年
    には、60万人しかいなかった香港の人口は、2年後には180万人に
    まで激増しました。そして、中華人民共和国が成立した1950年に
    は、1年間で34万人近い人々が、共産化を恐れて香港に流入した
    そうです。

    さらに、1960年代にかけて、中国本土国内では、大躍進による
    大飢饉や、文化大革命などの内乱で多くの難民が発生しました。
    また、朝鮮戦争が勃発すると、国連による中華人民共和国への
    経済制裁が行われ、中華人民共和国から難民が流入しました。
    香港へ不法入境する者が後を絶たず、中国が改革開放路線を進み
    始めると、さらに、香港へ職を求めて中国人の不法入境者が増え
    ました。

    そこで、香港政庁は「抵塁政策」を採用しました。これは、香港
    市街地まで到達できた不法入境者には香港居留権を与え、手前で
    捕まった者は中国に送還するというものでした。つまり、抵塁
    (ホームベースに達する)できる若い力のある男性を受け入れる
    という政策でした。抵塁政策で香港に入った入境者たちは、香港
    の工業の発展に寄与しまたが、1970年代末から、香港では労働者
    が過剰になり、また不況により、人口増加に対し圧力が強まった
    ため、抵塁政策は1980年に打ち切られたそうです。

    中国からの移民者は、主に労働者や農民でしたが、上海出身の
    資本家や企業家も少なくなく、香港産業の発展の元となしました。
    1960年〜1970年の初めは、香港の工業が発展し、経済が飛躍的に
    発展しました。けれども、同時に、労働争議も頻発し、香港政庁
    の腐敗、貧困問題などが社会の不安となりました。1967年には、
    中国の文化大革命に呼応した左派グループを中心に、反イギリス
    暴動が起き、左派の民衆と香港政庁が衝突したそうです。

    この後、香港政庁は、政策を転換し、植民地の安定のため、社会
    福利(住宅供給や市街地の拡大プロジェクト)を強化し、また、
    汚職取締を行う独立機関を設立しました。一方、中国政府も、
    香港から安定して外貨を獲得したいという思惑から、共産党政府
    のナンバー・ツーで穏健派の周恩来が、長期的な利益から香港を
    回収しない方針を明らかにし、香港の左派の活動を抑制したため、
    混乱は収まったそうです。

    1970年代には、入ると、租界(新界)の租借期限が次第に近付い
    て来たため、イギリス政府は租借の延長を中華人民共和国に求め
    ましたが、中華人民共和国は応じませんでした。

    1970年代の香港は、中国と諸外国間の中継貿易港として発展し、
    香港政庁は自由放任政策に徹していました。政府による規制を
    極力押さえ、低い税率を維持するなど、過剰な経済への介入を
    避ける、積極的不介入主義でした。その結果、1970年代からは
    繊維産業を中心とする輸出型の軽工業が発達し、1980年代から
    1990年代にかけて、香港はシンガポール、中華民国、韓国と共に
    経済発展を遂げた「アジア四小龍」あるいは、アジアNICs、ある
    いはNIEsと呼ばれるようになりました。

    1982年、中国はイギリスと香港返還の交渉を始めます。イギリス
    は、主権は返還するが、統治権は英国側が維持するとしていまし
    たが、中国側の代表のケ小平は、イギリスのサッチャー元首相
    との会談で、全面返還(港人治港)を強く求め、場合によっては
    武力行使も辞さないと、主張しました。結局、1984年9月26日、
    「中英共同声明」により、香港が1997年7月1日に中国に返還される
    ことが決まりました。「一国二制度」を採用し、香港は資本主義
    と現在の法体制を維持し、その体制は「50年間不変」と約束され
    ました。しかし、香港の人々は先行きの不安からカナダ、オース
    トラリア、米国などへ移民したそうです。特に、1989年の天安門
    事件が発生すると、香港では民主派支持の大規模デモが行われ、
    専制的で、強権的な中華人民共和国の本質が明確になったとして
    再び、移民ブームが巻き起こりました。

    1992年にクリス・パッテンが最後の植民地総督に就任しました。
    これまで総督が全権をにぎっていた議会制度を改革し、直接選挙
    制度を導入するなどの民主改革に着手しました。中国側は、
    「中英共同声明」に違反すると反発し、直接選挙で選ばれた民主派
    議員で構成された植民地最後の議会を解散させ、別途、親中国派
    で構成された臨時立法会を組織するという混乱もありました。
    (1998年に、直接選挙枠も「基本法」で制度として認められ、
    継承されることになりました。)

    ただ、このような政治的動揺や移民の大量流出にもかかわらず、
    経済的には、中華人民共和国資本の流入によって、返還前の香港の
    不動産市場や株式市場は空前の活況を呈したそうです。

    1997年、香港は中国へ返還されました。エリザベス2世の肖像は
    姿を消し、ユニオンジャックに代わって、五星紅旗が香港に戻り
    ました。公用語はそれまでの英語と広東語に加え、新たに中国の
    標準語である、「普通語」が採用されました。
    香港は、新たに、香港特別行政区と名づけられ、中華人民共和国の
    特別行政区の一つとなり、中華人民共和国の政府と、深い関係に
    ある、富豪の董建華が初代香港特別行政区行政長官となりました。

    しかし、香港返還直後に始まった、アジア通貨危機の影響で、
    香港の不動産価格は大暴落し、中国の貿易の中継基地としての
    役割も次第に減少し、失業率は上昇、衰退がささやかれました。
    とりわけ2003年には、隣接の広東省が発端となったSARSが香港
    でも急速に拡大し、2000人が感染、299人が死亡する事態となり、
    観光客は激減し、香港経済は大打撃を受けました。

    また、あまりにも中華人民共和国寄りで、香港市民に不評だった
    董建華行政長官は、2005年に辞任しました。新行政長官選挙が
    行われ、曽蔭権が正式に行政長官に就任しました。また2005年
    9月には、新香港国際空港近くに、香港ディズニーランドが
    オープンし、香港再生が期待されているそうです。

    一時発生した、中国への返還に対する不安は徐々に消え、海外へ
    移民した人々も香港に戻ってきているそうです。    
    香港は、世界の工場といわれる中国市場の金融センター、物流
    センターとして、中国経済と一体化が進み、金融、商業、観光
    都市となっています。

    ☆香港ホテル