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    <インドの歴史>

   ○簡潔なもの○

   インドは”最も古くて新しい国”と言われています。デリー
   近郊の観光地でも、リキシャー(人力車)とオートリキシャー
   が競い合っているそうです。人口は10億人です!

   1526年から1858年まで、インド北部を支配したムガル帝国は、
   イスラムの王朝です。中央アジア出身で、ティムール朝の王族を父、
   チンギス・ハーンの次男チャガタイを祖とするハーン家の王女を母、
   とする遊牧貴族、バーブルが、現在のアフガニスタンからインドに
   移って建国しました。王朝名のムガル(Mughal)はペルシア語の
   ムグール(モゴール:Mughul)のなまりで、モンゴル人を意味し、
   ムガール帝国とは「モンゴル人の帝国」という意味の国名だとか。

   その後インドは、イギリスによる117年間にわたる統治を経て、
   第2次世界大戦後、1947年(昭和22年)に、悲願である独立を達成
   しました。現在は、優秀なIT技術者の多い「頭脳国家」です。

   インドの首都と言えばデリーなのですが、実は、デリーには
   オールド(old古い)デリーとニュー(new新しい)デリーの2つが
   あります。オールドデリーは、紀元前のアショカ王朝に始まり、
   イスラムの支配の後、約3世紀の間続いた、ムガル帝国時代を
   通して、インドの都でした。

   一方のニューデリーは、1833年にイギリスの植民地支配により、
   デリーからカルカッタに都が移された後、再びイギリスにより、
   約20年もの歳月を経て、新たに建設された、政治の中枢を担う、
   近代的な計画都市です。今も成長を続けています。 

  ○詳しいもの(先史時代から)○

    紀元前3500年頃に、地中海方面から移住してきた 
    ドラヴィダ人は、紀元前2600年頃からインダス川
    の広大な流域に定住して農耕生活を築くようになり、
    インダス文明が栄えました。

    しかし、紀元前1800年頃に、インダス文明は滅びた
    そうです。その後、紀元前1500年頃になると、
    イラン・イラク高原から、遊牧民であるアーリア人が
    カイバル峠を越えて、パンジャーブ地方に移住して
    きたそうです。

    そして、紀元前1000年頃にガンジス川流域へ移動し、
    ドラヴィダ人をはじめとする先住民を支配して、定住
    生活に入りました。(そのため、今でも、インド北部
    にはアーリア人の比率が非常に高いそうです)

    アーリア人は神々への賛歌であるヴェーダを重視し、
    司祭階級は、バラモンとして特権的な地位を得ました。 
    このバラモンを頂点とした身分制度は、カースト制度と
    呼ばれ、今日に至るまで、インド社会を規定しています。

    紀元前6世紀には、ガンジス川流域にマガダ国、
    コーサラ国などの16王国が栄えたそうです。
    仏教やジャイナ教は、紀元前5世紀頃、マガダ国で
    生まれたそうです。

    紀元前327年、アレキサンダー大王がペルシャ帝国を
    打ち破り、ヒンズークシ山脈を越え、やって来ます。
    今でもいくつかの部族に、自分達がアレキサンダーや、
    その軍隊の子孫だと主張する伝説が残っているようです。

    紀元前321年には、チャンドラグプタがナンダ朝を倒し、
    最初の統一国家である、マウリア朝が創設されました。
    マウリア朝は、有名な第3代のアショーカ王の時代に
    最盛期を迎えました。

    その後、シルクロードの全盛期になっていきました。
    中国、インドおよびローマ帝国の間で、盛んに貿易が
    行われたそうです。

    1世紀頃に起こったクシャン朝は、シルク貿易の中心
    でした。クシャン朝の首都は、ガンダーラ地方
    (現在のペシャワール周辺)にありました。

    ガンダーラは、貿易と、宗教的な学問と、仏教徒の
    聖地として巡礼されました。ガンダーラ地方を中心
    に栄えた美術は、ガンダーラ美術と言われます。

    2世紀までに、クシャン朝は最盛期を迎え、領土は、
    イラン東部から中国辺境、南はガンジス河まで拡大
    したそうです。

    クシャン朝は仏教国であり、カニシカ王の下で数千
    もの僧院やストゥーパ(仏塔)が建てられました。

    またデカン高原には、2世紀頃、サータヴァーハナ
    朝があり、ローマ帝国との海上交易で繁栄していた
    そうです。

    クシャン朝は4世紀までに分裂しました。
    その後、320年頃になると、チャンドラグプタ1世に
    よりグプタ朝が興されました。グプタ朝は400年頃
    には、北インドを統一し、5世紀初頭には、インドの
    ほぼ全域を統一しました。

    グプタ朝では、サンスクリット文学がさかんになる
    一方、アジャンター石窟などの優れた仏教美術が
    生み出されました。

    グプタ朝は5世紀後半より衰退し、中央アジアの騎馬
    民族であるエフタルの侵入などにより、550年頃に
    ついに、滅亡したそうです。

    これらの古代王朝の後、7世紀からは、ヒンズー系の
    ラージプートと呼ばれる民族集団の諸王朝が分立し、
    エローラ石窟群やカジュラーホーなどが建設された
    そうです。

    主な王朝では、7世紀頃、ハルシャ・ヴァルダナ王に
    より、北インド最後の統一王朝でヴァルダナ朝が興り
    ましたが、王の死後、ヴァルダナ朝は滅亡しました。

    11世紀初めからは、イスラム教勢力(ガズナ朝)の
    侵入がありました。1206年には、ガズナ朝から独立
    したイスラム系のゴール朝が、アフガニスタンから
    インドへ進出して、北インドを支配し、デリーを首都
    としました。ゴール朝は、13世紀初頭には、インドの
    大部分を支配しましたが、その後、まもなく分裂して、
    滅亡しました。

    さらに、その後、14世紀後半〜16世紀初頭にかけては
    ヴィジャヤナガル王国など、5つの王朝が続きました。

    一方、南インドでは、10世紀後半ころからタミル系の
    チョーラ朝が貿易で繁栄し、11世紀には東南アジアの
    シュリーヴィジャヤ王国まで遠征を行ったそうです。

    16世紀になると、中央アジアでティムール帝国が滅亡
    しました。滅亡した、ティムール帝国の王族の子孫で
    あったバーブルは、中央アジア、ウズベキスタンの
    サマルカンドでの国家建設に失敗し、北インドへ南下
    を始め、デリーを中心とするイスラム系の王朝を倒し、
    1526年に、ムガール帝国を建てました。

    ムガール帝国の3代皇帝のアクバルは、ヒンズー教徒
    との融和を図り、統治するための整備に努めました。
    そして、南北インドの大半を統一しました。

    有名な王宮である、アーグラにあるタージ・マハール
    を建設したシャージャハンは、第5代皇帝になります。

    しかし、6代皇帝のアウラングゼーブは、この宗教的
    寛容策を改めて、厳格なイスラム教スンナ派に基づく
    統治を行ったために各地で反乱が勃発し、ムガール
    帝国は衰退に向かったそうです。

    17世紀になると、スペイン・ポルトガルに代わり、
    イギリスとオランダがアジア海域へ進出しました。

    イギリスとオランダは、東南アジアで衝突し、
    (アンボイナ事件)敗れたイギリスは東南アジア
    からインドへと進出しました。

    そして、1600年にイギリスは東インド会社を設立し、
    インドの西海岸スラートに商館を開きました。

    インド産の手織り綿布をイギリスの東インド会社が
    ヨーロッパに持ち込むと大流行となり、イギリスは
    対インド貿易を重視するようになりました。

    17世紀中頃からは、インドでは各地で反乱が頻発し、
    ムガール帝国は次第に衰退していました。
    東インド会社は、1690年にカルカッタに軍事基地と
    商館を設立するため、ムガール帝国と交渉を進めて
    いました。

    一方、フランスも徐々にインド進出を図っており、
    やがて、両国では、抗争が始まりました。

    まず、第1次カーナティック戦争(1744年〜
    1748年)に始まり、 第2次(1749年〜1754年)
    第3次(1756年〜1763年)と続きました。

    特に、第3次カーナティック戦争は、ヨーロッパで
    の七年戦争という、プロイセンと、それを支援する
    イギリスに対し、オーストリア・ロシア・フランス
    などの間で行われた戦争と重なりました。

    1756年に、ムガール帝国のベンガル大守であった、
    スラジャ・ウ・ドウラは、フランスの後押しを受け、
    全てのイギリス人をカルカッタから追放しました。

    しかし、東インド会社軍は1757年に、カルカッタを
    大守の軍を打ち破り(プラッシーの戦い)1765年に
    ベンガル地方の徴税権を獲得しました。このことに
    より、東インド会社の植民地化が進みました。
    そして、フランスは撤退しました。勢力を伸ばした
    東インド会社は、インドの5分の3を支配しました。

    さらに、1839年にイギリスはシーク教徒との戦争で
    勝利し、カシミール周辺の地も併合し、それらを、
    ジャンムー・カシミール国と名づけました。

    1850年代には、イギリスはパンジャブとシンドを併合
    しました。

    しかし、この頃、イギリスから機械製の綿織物が、
    インドへ流入して、インドの伝統的な綿織物産業は
    衰退し、インドの民衆は困窮していきました。

    こうした背景があり、1857年に、第一次インド独立戦争
    (セポイの反乱)が起こりました。セポイは、東インド
    会社が編成したインド人傭兵ですが、この反乱では、
    セポイだけでなく一般市民、各地の土候、ヒンドゥー、
    ムスリムの僧も参加した、実態は、民族解放闘争でした。

    イギリスは、セポイの反乱の後、1858年にムガール帝国
    を完全に滅ぼし、インドを直接統治下におきました。

    東インド会社は1874年に解散し、1877年には、イギリス
    女王がインド皇帝を兼任する、イギリス領インド帝国が
    成立しました。

    一方で、インド独立への動きも始まっていました。

    1883年、カルカッタで「全インド国民協議会」の第1回
    大会が開催され、1885年には、ボンベイで「インド国民
    会議派」第1回大会が開催されました。

    後に、インド国民会議派に、全インド国民協議会が合流
    することになりました。このインド国民会議派は、インド
    人知識人層が中心メンバーでした。イギリスは、インドを
    統治するために、この組織を懐柔しようと考えており、
    国民会議派も、目だった活動はしていませんでした。

    しかし、日露戦争における日本の勝利などの後、反英強硬
    派が台頭して、次第に、この組織は、インド独立を目指す
    方向へ、動き出しました。

    これに対して、イギリスは、このインド独立運動を、宗教
    運動へ転嫁させることを考えつき、1905年にベンガル
    分割令を発令しました。

    この結果、ベンガル地方は、ヒンドゥー教徒の多く住む
    西ベンガルと、イスラム教徒の多く住む東ベンガルに分割
    され、少数派のムスリムは、東ベンガルで多数派になる
    ことが出来、親英に一気に傾きました。そして、親英的な
    組織である、全インド・ムスリム連盟が発足させました。

    しかし、インド国民会議派からは、猛反発を招いたことも
    あり、1911年イギリスはベンガル州分割を取り消しました。

    1914年に、第一次世界大戦が始まると、イギリスはインド
    に対して、兵員を送る見返りに、将来独立することを承認
    して、参戦を促したそうです。

    しかし、大戦中に、イギリスが、イスラムの国である
    トルコと開戦したことに対し、全インド・ムスリム連盟は
    反発して、イギリスへの忠誠は取り除かれ、代わりに、
    自治を目標に掲げました。その後、この連盟の活動は、
    パキスタンとしての独立へとつながっていきました。

    また、第一次世界大戦中、インドは年間の税収入以上の
    金額をイギリスに寄付し、100万人近いインド兵士を戦場
    に送り、自治の約束を信じてイギリスに協力しました。

    第1次世界大戦後、1919年、インドの自治権を盛り込んだ
    インド統治法が制定されました。しかし、その内容は、
    インドの期待に反する形式的なものでした。さらに同時に、
    令状なしの逮捕、裁判なしの投獄、上告を認めない、等と
    いう、民族運動の抑圧を目的とする、ローラット法が発布
    され、インドでは、さらに民族運動が高揚していきました。

    この時、インド人の指導者として現れたのが、マハトマ・
    ガンディーです。ガンディーは、知識人が主導であった
    インドの民族運動を、幅広い、大衆運動に変えました。
    そして、やがては、完全自治の要求に発展させました。

    ガンディーは、ヒンドゥー教徒とイスラム教徒の支持を
    得て、断食を武器とした非暴力・不服従運動を指導しま
    した。1914年には、インド全土での「同盟休業」を指示
    しました。2万人近い人々が集まりましたが、府武装の
    人々に対し、イギリス軍が発砲し、死者だけでも397名、 
    負傷者1200名を出したそうです。

    1920年には、ガンジーの呼びかけに応じ、国民会議派は、
    非協力運動方針を決定しました。これは、イギリス政府に
    対し、選挙をボイコットし、公立学校から子弟のを引き
    上げ、イギリス製の外国製品にを買わずにボイコットする
    という方針だったそうです。

    1920年の選挙では、有権者の80%がボイコットしました。
    ガンジーは逮捕され、禁固6年の判決が下りました。
    1924年、ガンジーは刑務所で急性盲腸炎にかかり、
    手術を受けた後、釈放されました。

    ガンディーが主導した非暴力独立運動は、イギリスの
    インド支配を動揺させました。第二次世界大戦では国民
    会議派から決裂した左派のチャンドラ・ボースが日本の
    援助によってインド国民軍を結成する等、独立をめざす
    動きが進みました。

    1939年、第二次世界大戦が勃発しました。インド会議派は、
    戦争非協力の宣伝を開始しましたが、イギリスは、インド
    各地の会議派の指導者、2万人以上を投獄し、インド国民の
    声を無視しして、ただちにインドを参戦させました。

    1940年代中頃から、ヒンズー教徒とイスラム教徒の間の
    暴力は、エスカレートしていました。1945年、第二次世界
    大戦は終結しました。その後、1946年、カルカッタで
    ヒンドゥー教徒とイスラム教徒が衝突し、4日間で5000人
    の死者を出し、両者の対立は決定的なものとなりました。

    イギリスは、戦争で疲弊しており、イスラム国家を分離
    させることは避けられないと認め、もう、インドから手を
    ひく決意を表明しました。

    こうして、独立をめぐる決定は、インド人自身にゆだね
    られましたが、インド統一を主張するガンディーらの国民
    会議派と、イスラム国家の建設を主張するジンナーらの
    全インド・ムスリム連盟が対立し、一時は武力抗争にまで
    発展していきました。
    
    そして、1947年8月15日インド独立法に基づき、イギリス領
    インド帝国は解消され、インドは独立しました。初代首相
    にはジャワハルラール・ネルーが就任しました。

    しかしインド統一はならず、ヒンドゥー教徒を主体とする
    インド連邦と、イスラム教徒を主体とする、東西パキスタン
    (東パキスタンは現在のバングラディシュ)に分裂した状態
    でした。

    東西パキスタンは、インドをはさんで領土が東西に分かれた
    分離国家で、宗教は同じでも民族を異にしており、それを
    原因とした衝突がたえず、1971年に、東パキスタンはバング
    ラデシュとして独立することになりました。

    インドは、1947年の独立に際して、政教分離主義という柱で
    国の統一を図りました。インド憲法に書かれた正式国名は
    ”Indian Sovereign(独立国) Socialist(社会主義の)
     Secular(世俗主義の) Democratic(民主主義の) Republic
     (共和国)”であり、社会主義共和国となっています。

    東西冷戦時代(1945年〜1989年)には、どちらかというと、
    ソ連寄りでしたが、中立非同盟国家の中心となりました。

    しかし、他の社会主義国ほど、義務教育の完全普及や身分
    差別廃止の徹底はうまくいかず、小学校さえいけない子も
    多く貧富の差も激しかったようです。しかし、1億人いた、
    不可触賎民(アンタッチャブルという、奴隷以下の身分)
    出身の大統領(コチェリル・ラーマン・ナラヤナン)も
    出てくるなど、特例も出てきているそうです。

    1948年に、狂信的なヒンドゥー教徒により、ガンジーは
    暗殺されてしまいました。

    また、カシミール(正式には、ジャンムー・カシミール国)
    の支配をめぐり、インドとパキスタンは、カシミールに
    軍隊を送り、戦闘が始まりました。

    カシミールは、インドや、パキスタンの一部となることを
    望んでいなかったそうですが、1949年に国連は停戦を調停し、
    インドとパキスタン両国に、それぞれカシミールを分配する
    決定をしました。しかし、なお国境は明確でないまま残され
    ることとなりました。

    1961年には、1510年以来ポルトガルの植民地であったゴアを、
    インドは強行接収し、1965年、1971年には、再びパキスタン
    との戦争が起こりました。東パキスタンの独立に、インドが
    協力する形の、この戦争の結果、東パキスタンは独立して、
    バングラディシュとなりました。

    これらの、三度の印パ戦争(1949年、1965年、1971年)の後、
    両国の対立は現在も続いています。

    ネール首相は、1964年に死去するまで、首相を務めました。
    1966年、第2代首相シャストリの死去に伴い、ネルーの一人娘
    であったインディラ・ガンディーが、首相に就任しました。

    1971年の総選挙では、インディラ・ガンディー首相は、貧困
    追放を政策としてかかげ、圧勝しました。しかし、その後、
    ガンディー政権はしだいに縁故者や側近を重用し、独裁的に
    なっていきました。
  
    1973年からは食糧事情が悪化、経済の不振が深刻化し、農村
    では貧富の差が増大しました。そのような中、インド政府は、
    1974年に地下核実験をおこない、世界で6番目の核保有国と
    なりました。

    1975年には、反政府運動も高まりました、政府は治安維持法に
    よって、反首相派の指導者、1万人を逮捕しました。さらに、
    アラハバード高等裁判所から、選挙違反による有罪判決が
    インディラ・ガンディー首相に下ると、首相は、非常事態を
    宣言し、判決を無効にする憲法改正を行ない、報道管制をしき
    危機の乗り切りを図りました。

    この時期、スラムの取り壊しや、人口抑制のための不妊手術が
    強行されれたため、政府に対する批判が強まりました。1977年
    の総選挙では、長期にわたり政権を担った国民会議派は敗北し、
    インディラ・ガンディー自身も落選しました。

    1984年、インディラ・ガンディー首相は暗殺され、息子の、
    ラジーブ・ガンディーが首相に就任しました。( なお、
    ラジーブ・ガンディーも1991年に暗殺されてしまいます。)

    1990年代からは、インド人民党が勢力を伸ばし始め、アタル・
    ビハーリー・ヴァージペーイー政権が誕生しました。

    ヴァージペーイー政権は、ルック・イースト政策に基づいて、
    アジア諸国との関係を重視しました。中立非同盟とはいえ、
    アメリカ、イギリスとも友好な関係をとっているようです。

    近年は、IT産業や製造業を中心に経済成長を続けており、
    ロシアやブラジルなどと共に、BRICs(ブリックス)の一角と
    して注目を集める存在となりました。

    2006年には、核弾頭搭載可能な中距離弾道ミサイル「アグニ3」
    の初の発射実験を行いました。(目標の落下地点には、到達
    しなかったそうです)

    インドは、広大な国土に対して、インフラ整備が進んでいない
    こともあり、天災による被害を受けやすい状態です。2006年に、
    モンスーンによる洪水の被害者は、東部のグジャラート、また、
    南東部のアーンドラ・プラデーシュの2州だけでも、約1300万人
    に上ったそうです。インド全土での死者は、10日までの9日間で
    240人に達したそうです。

    現在も、隣国の、中華人民共和国とは領土問題で緊張状態が
    続いているそうです。