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    <インドネシアの歴史>

    紀元前1世紀頃には、インドの貿易商たちが、大挙してインドネ
    シアへ来て、ヒンズー文化と仏教文化をもたらしたそうです。

    7世紀後半に、スマトラを中心に、仏教国のスリヴィジャヤ王国
    が成立し、またジャワを中心にして、ヒンズー教国のマタラム
    王国などが成立し、壮大な建築物や寺院が数多く建立されます。

    13世紀には、ヒンズー教のマジャパヒト王国が東ジャワで台頭
    しました。やがてインドネシア全域とマレー半島の一部を支配
    し、インドネシア史の黄金期を象徴する遺跡が残されました。

    また、この頃、スマトラ島北部のアチェにイスラム教が伝わり
    ました。13世紀後半には、北スマトラにイスラム小国家が出来、
    イスラム商人の活躍によって、各地にイスラム教が広がります。
    マルコポーロがジャワを訪れたのはこの頃だそうです。
    15世紀には、イスラム国家は、ヒンズー教のマジャパヒト王国
    をバリ島に退却させるほど強大になりました。

    しかし、1511年に、インドネシアはポルトガルの植民地になり
    ます。ついでオランダがポルトガルに代わり、インドネシアへ
    の侵入を始めました。1619年、オランダはジャカルタを攻撃し
    制圧しました。ジャカルタをバタビアと改名します。そして
    オランダ東インド会社を設立し、香辛料貿易を支配し、また
    ジャワ島も支配下におきました。

    オランダは、20世紀初期までにアチェとバリ島を含む全諸島を
    支配下におきました。しかし、この頃から、オランダの支配に
    対する反乱、独立運動が激しくなりますが、鎮圧されます。

    これに対し、1928年、スカルノらにより、インドネシア国民党
    が結成され、オランダからの独立運動を開始しました。

    第二次世界大戦中には、1942年、日本軍が諸島を占領しました。
    当初、インドネシア国民は、日本によって、独立が達成される
    ことを期待していました。けれど、反対に、強制労働により、
    多くの国民が死んだそうです。

    日本の無条件降伏の二日後、1945年8月17日、スカルノはインド
    ネシア独立を宣言しました。しかしインドネシアの再植民地化を
    ねらうオランダは、武力で制圧しようとし、双方で戦闘が始まり
    ました。インドネシア軍の抵抗と、国際世論の非難により、
    オランダは植民地化をあきらめ、1949年12月、オランダのハーグ
    における会議で、独立が合意されました。

    1950年8月、完全独立が達成されました。スカルノが、大統領に
    就任しました。しかし、スカルノは、議会を廃止します。また
    戒厳令を出して、独裁主義的政治を始めました。スカルノは、
    自分の政治を「指導民主主義」と呼びました。スマトラ等では
    反乱が起こりましたが、政府により鎮圧されました。国連からも
    脱退し、経済は社会主義化していきました。

    1965年9月30日、軍部共産主義グループによるクーデターが起き
    ました。これに対し、スハルト陸軍戦略予備隊司令官が、鎮圧し
    ました。これがインドネシア現代史で有名な「9.30事件」です。
    このクーデター鎮圧によって、スハルトが実権を握りました。
    そして、スカルノ大統領は、大統領職をはくだつされました。

    1968年、スハルトが大統領に就任しました。インドネシアは、
    スハルト政権の下で、先進国の投資や援助を生かし、経済開発を
    急速に進めました。

    ところが、1990年代半ばから、政府幹部、高官の間に汚職や腐敗
    が広がり始めました。加えて、アジア通貨危機が発生し、インド
    ネシアの通貨、ルピアも急落します。政治不安、体制変革の機運
    が高まり、ついに、1998年スハルト大統領が退陣します。
    後継には、ハビビ大統領が就任しました。

    1999年には、東ティモールで、インドネシアからの独立の賛否を
    問う住民投票があり、圧倒的多数が独立を支持しました。しかし
    その後、インドネシア併合派によるとみられる暴力事件が多発し、
    インドネシアは国際的な批判にさらされました。
    今でも、多くの東ティモール人やパプア人が、インドネシアへの
    強制的な帰属に抵抗し続けているそうです。