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    <イラクの歴史>

    イラクは「豊かな過去を持つ国」と言う意味を持つそう
    です。実際に、これほど数多くの王朝が支配した地域は、
    他に、ないだろうと思います。

    約6万年前のイラクには、ネアンデルタール人が住んで
    いたそうです。ネアンデルタール人は、我々現生人類で
    あるホモ・サピエンスに最も近いヒト属とされます。

    イラクの国土は、世界最古の文明である、メソポタミア
    文明が栄えた場所と同じだそうです。有名な大河である、
    ティグリス川と、ユーフラテス川により形成された、
    メソポタミア平野にあります。

    両大河の雪解け水による増水を利用し、古くから、農業
    を営む定住民があらわれ、エジプトのナイル川流域等と
    あわせ、「肥沃な三日月地帯」として知られていました。

    紀元前4000年頃から、シュメール人(BC3500〜2700)、
    その後は、アッカド(BC2000年頃)、そして古バビロニア
    (「目には目を、歯には歯を」で有名なハンムラビ法典の
    ハンムラビ王の国)、さらに、アッシリア(紀元前1340年
    頃〜BC800年)、新バビロニア(紀元前626年〜562年頃)等、
    数々の王国や王朝が、この地方を支配してきました。

    紀元前6世紀頃から、イラク地域は広大なアケメネス朝
    ペルシア帝国(古イラン帝国)の一部となりました。

    紀元前331年、アケメネス朝ペルシア帝国は、アレキサンダー
    大王の遠征によって滅亡しました。 アレキサンダー大王の
    死後は後継者争いが起こり、この結果、バビロニアを基盤に
    するセレウコス1世が、イラン、シリアの支配も獲得し、ギリ
    シア系のセレウコス朝シリア(シリア王国)を興し、イラク
    は、その支配下になりました。

    紀元前3世紀中頃に、セレウコス朝の支配力が衰え、イラン
    東北地方の、パルティアと呼ばれるイラン系遊牧民が独立
    し、この地域を支配しました。

    この後、イランのアルダシール1世が、226年にパルティアを
    滅ぼしてサーサーン朝ペルシアを興し、230年には現イラク
    地域を支配下に収めました。

    イラク地域は、これらの大帝国の主要地域であり、帝国時代
    の大半で、イラク地域に首都が置かれていました。

    610年頃にムハマンドがおこしたイスラム教は、イラク周辺の
    地域に急速に広まりました。 ムハマンドが作ったイスラム
    共同体を母体として、アラブ人を中心とするイスラム帝国が
    誕生し、急速に拡大しました。

    634年頃、イラク地域を支配していた、サーサーン朝ペルシア
    帝国は、イスラム帝国(アラブ人)によって征服されました。
    これ以来、イスラム帝国の支配下で、アラビア半島から、
    アラブ人の部族ぐるみの移住が相次ぎました。

    この頃から、アラブ人によって、この地域はイラク(イラーク)
    と呼ばれ、急速にアラブ化・イスラム化していきました。

    8世紀半ばには、イスラム帝国のアッバース朝がおこり、
    イラクのバグダッドを帝国の首都としました。バグダッドは、
    アッバース朝が滅びるまで、イスラム世界の精神的中心と
    して栄えました。

    13世紀には、中国大陸で、モンゴルのチンギス・ハーンが
    モンゴル帝国を興し、イスラム諸国に侵攻しました。
    1258年、チンギス・ハーンの孫であるフレグ・ハンによって
    バグダッドは征服され、これによりアッバース朝は滅亡し、
    モンゴル系のイルハン朝が支配しました。

    その後、中央アジアにおいて、モンゴル系遊牧勢力を統合
    したティムールが、ティムール朝を興し、イラクを勢力下
    に入れました。ティムール亡き後は、トルコ系の黒羊朝、
    白羊朝の支配を受けますが、1501年に、イランに起こった
    サファヴィー朝とよばれるイスラム王朝の支配を受けます。

    一方、13世紀末にアナトリア西北部で建国したトルコ系の
    オスマン帝国は、西はモロッコから東はアゼルバイジャン
    北はウクライナから、南はイエメンに至る領域を支配する
    まで勢力を広げていました。16世紀にサファヴィー朝を破り、
    イラクはオスマン帝国の一部となりました。この後、何度か、
    イラクを巡る、両者の係争は続きましたが、オスマン帝国の
    支配は、第一次世界大戦まで続きました。

    19世紀の段階では、オスマン帝国は、現在のイラクとなる
    地域を、バグダードとバスラ、モースルをそれぞれ州都と
    する3つの州として統治していました。

    次に、19世紀以降には、オスマン帝国に対して、産業革命が
    進んでいた、西欧諸国が進出してきました。西欧諸国に対し
    様々な利権の供与が行われました。

    第一次世界大戦では、オスマン帝国はドイツとの同盟により
    同盟国側で参戦するものの、イギリス軍に対して、劣勢を覆
    すことができず、1917年にはバグダードが陥落し、1918年に
    オスマン帝国は降伏しました。

    戦勝国であったイギリスは、3つの州をあわせて「イギリス
    委任統治領イラク」を成立させ、大戦中、アラブ独立運動の
    指導者として知られた、ハシム家のファイサル・イブン=
    フセインを国王に据え、王政をしかせました。

    この、ハシム家は聖地メッカ出身の名門家系で、イスラム教
    の創始者ムハンマドの直系とされます。
    第一次大戦で、太守フセインは、オスマン・トルコへの反乱
    に参加しました。イギリスは第一次世界大戦後、ハシム家の
    フセインの二男アブドラにヨルダンを、三男ファイサルに
    イラクを与え、両国で王国を成立させたというわけです。

    ハシム王家は、イギリスの支援のもとで中央集権化を進め、
    イスラム教のスンニー派を中心とする国家運営を始めました。
    1927年には、キルクーク近郊で大規模な油田が発見され、
    イラクの経済は改善されました。そして、1932年に、イラク
    王国として、独立を達成しました。

    1945年には、国際連合に加盟しました。しかし、1948年〜
    1949年にかけて、イラクなどアラブ5カ国は、イスラエルの
    建国を承認せず、第一次中東戦争となり、イラクの経済も
    悪化します。

    また、1958年にはエジプトとシリアによって結成された、
    アラブ連合共和国に対抗して、イラクは同じハシム家が統治
    するヨルダンと、アラブ連邦を結成しました。けれども、
    エジプトのナーセル大統領に感化された、カセム率いる自由
    将校団のクーデターによって倒れ、共和制となりました。

    しかし、そのカセム政権も1963年にバース党将校のクーデター
    で倒れ、バース党が権力を握りました。1968年にバクルが、
    大統領に就任しました。経済優先政策の結果、イラク経済は
    急速に回復しました。続いて1979年に、サッダーム・フセインが
    大統領に就任しました。就任後、1980年から1988年にかけて、
    イランとイラクとの国境をめぐり、イラン・イラク戦争が勃発
    しました。

    イラン・イラク戦争で、イラク政府は、ヨーロッパ、アメリカ、
    ソ連、中国など、多くの大国から支援を受けました。1984年に、
    イラクはアメリカと国交を回復しました。アメリカは、1988年
    に至るまで、フセイン政権に兵器供給を行いました。

    この戦争のさなかに、フセイン政権は、国内に住むクルド人に
    対して、毒ガスを使って大量虐殺を行ったそうですが、米国政府
    のレーガン政権も黙認したそうです。クルドの虐殺については、
    国際社会からは、イラクは大きな批判を浴びました。イラクは、
    軍事大国となった、一方で、国家財政は悪化していきました。

    1990年に、イラクは石油資源を求め、隣国のクウェートに侵攻
    しました。イラクによる侵攻後、国際連合とアラブ連盟は、
    ただちにイラクを非難し、湾岸戦争が始まります。
    1991年、国連の決定により、アメリカを中心とする28カ国
    多国籍軍はバグダードに進軍を開始しました(砂漠の嵐作戦)
    こうして、湾岸戦争が始まりました。

    10万人以上のイラク兵と数万人のイラク市民が死亡したと
    いわれます。イラクはこの戦いに敗れて、国際社会からも孤立
    しました。イラクと国際連合とは正式に停戦合意を結びました。

    湾岸戦争後、イラクは、経済制裁を受け、市民は貧困に苦しみ
    ました。また、国連決議により、イラクは大量破壊兵器の放棄を
    義務付けられました。これを確認するため、国連査察団が送られ
    ましたが、イラクは査察に非協力的とされ、大量破壊兵器を保有
    しているとの疑いが持たれます。

    2001年9月11日、アメリカで同時多発テロ事件が発生しました。
    これをきっかけに、アメリカ政府は対テロ戦争を宣言し、まずは
    イスラム原理主義のターリバーンを排除するためにアフガニスタン
    に侵攻しました。 続く2003年3月、国連決議に反して大量破壊兵器
    を保有しているとの疑いで、アメリカとイギリスの連合軍はイラク
    に対しての開戦を宣言しました。(イラク戦争の始まり)

    米英連合軍は、バグダードを含む主要都市を短期間で占領します。
    フセイン政権は崩壊し、フセイン大統領もアメリカ軍に拘束され
    ました。

    その後、イラクは、アメリカ、イギリスを中心とする連合軍の
    軍事占領下に置かれ、一年あまりに渡って連合国暫定当局(CPA)
    によって統治されました。2004年、暫定政権に主権が移譲されて
    から後は、暫定行政当局は解散しました。

    2005年には、イラクで初めての議会選挙が実施されました。

    しかし、政権を巡り、スンニー派とシーア派とクルド人勢力の
    3大勢力が対立し、実質は内戦状態、無政府状態であるとされ、
    1日あたり約60人のイラク人が犠牲になっていると言われます。

    2006年に、シーア派議員連合のマリキが首相に選出され、イラク
    で初めての民主選挙による政権が発足しました。

    2006年12月30日、サッダーム・フセイン元大統領は絞首刑に
    よって処刑されました。2007年9月11日現在で、米軍の兵力は
    16万人を越えており、今も、イラクは混乱の状態にあります。