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    <イスラエルの歴史>

    イスラエルは、長い歴史を持ちます。

    約4000年前、アブラハムがパレスチナ(地中海の東岸南部から、
    死海にかけての辺り)を訪れた時にまで、ユダヤ民族の歴史は
    さかのぼります。紀元前13世紀、ユダヤ人はモーゼが率いた、
    脱エジプト(エクソダス)によって、現イスラエルに定住を始
    めることとなりました。

    紀元前11世紀頃、パレスチナに、ユダヤ王国が誕生しました。
    紀元前10世紀頃、ダビデ王、ソロモン王の時代にユダヤ王国は
    最盛期を迎えました。しかし、紀元前922年に、内乱のため、
    北のイスラエル王国と、南のユダ王国に分裂してしまいます。

    その後、紀元前721年に、北のイスラエル王国はアッシリア
    (イラクの北部の王国)に滅ぼされ、紀元前612年に、南の
    ユダ王国は新バビロニア(イラクの南部の王国)に滅ぼされて
    しまいます。

    その後、紀元前334年頃に、マケドニア王国が、パレスチナの
    地を征服しました。マケドニア王国の分裂の際には、再び、
    ユダヤ人がパレスチナの地を支配します。けれども、すぐに、
    ローマの属州になりました。その後、何度か抵抗を続けました
    が、結局、135年には再びローマ帝国に鎮圧されました。多く
    の住民が各地に離散し、現代のイスラエル国が誕生するまで長い
    離散生活が始まりました。 313年には、東ローマ帝国の支配下に
    入りました。

    614年にはペルシアの侵攻を受け、636年には、イスラム帝国軍が
    エルサレムを占領します。その後、1099年からは、十字軍がイス
    ラエル地方を支配します。この頃には、ガザ地区のユダヤ人社会
    が繁栄しました。 1291年からは、トルコ系のイスラム王朝である
    マムルーク朝が、1591年からは、同じくトルコ系のイスラム王朝
    オスマン帝国がイスラエル地方を支配しました。

    20世紀に入り、ヨーロッパからパレスチナへのユダヤ人の移民が
    急増します。1930年代 にはパレスチナのユダヤ人口は、16万人
    に達しました。

    イギリスは、メッカの大守であったフセインに対して、オスマン
    帝国に対する反乱を治めた見返りに、東アラブ地方(イラク、
    シリア、ヨルダン、レバノン、パレスチナ)の支配と、アラビア
    半島に、アラブ王国の建設を支持する事を約束しました。

    一方、1917年に、イギリスの外相バルフォアが、ユダヤ人の
    大富豪で、ユダヤ人団体の代表であったロスチャイルド卿宛に、
    「イギリス政府はパレスチナでのユダヤ人のナショナルホームを
    設立を支持し、努力する」事を確約した書簡を出していました。
    (いわゆる、バルフォア宣言というものです。)

    この、イギリスによる、相反する契約のためもあって、アラブと、
    イスラエルの争いは、だんだん激しくなっていきました。
    1947年、イギリスはパレスチナ問題の解決を国連に委ねました。
    これを受けて、国連総会は、パレスチナをアラブ、ユダヤの2ヶ
    国に分割し、エルサレムおよび周辺地域を国際管理下におくと
    いうパレスチナ分割案を、賛成多数で採択しました。けれども
    アラブ諸国は、この決議に対し強く反発しました。

    アラブ連盟は、ユダヤ人国家を武力で阻止すると宣言し、アラブと
    イスラエルは、その後武力衝突に突入していくことになりました。

    1948年、イスラエル国家の樹立が、テルアビブにおいて宣言され
    ました。この国家樹立宣言を機に、周辺アラブ諸国がイスラエルと
    の戦争に突入しました。(第一次中東戦争)

    シリア、エジプト、レバノン、トランス・ヨルダン(後のヨルダン)、
    イラクの各軍が、イスラエルと戦争状態に入りました。初めは、
    イスラエルは圧倒的に不利でしたが、アラブ各軍の準備不足もあり、
    次第に優勢になりました。

    1949年、ギリシャのロードス島で、休戦協定が結ばれました。
    その結果、イスラエルの領土は、パレスチナ全土の約3分の2を占め、
    た。国連によるパレスチナ分割決議にある、パレスチナ全土の57%
    とした地域を大きく上回わる結果となりました。 

    イスラエルとトランス・ヨルダンは、休戦協定により、エルサレム
    を東西に分割しました。東エルサレムはトランス・ヨルダが支配し、
    西エルサレムはイスラエルが支配することになりました。
    この戦争により、パレスチナの土地に住んでいたアラブ人、数十万
    人は難民となりました。

    トランス・ヨルダンは、東エルサレムを自国領に編入し、国名を
    「ヨルダン・ハシミテ王国」に変更しました。また、ガザ地区は
    エジプトに編入され、パレスチナは、3国により分割されました。

    1956年、エジプトのナセル大統領は、スエズ運河を国有化すると、
    宣言しました。イギリス、フランスは、イスラエルとともに、
    エジプトに対して、共同作戦を取りました。1956年、イスラエルは、
    ガザ地区とシナイ半島に進撃し、イギリス・フランス軍はエジプト
    への攻撃を開始します(スエズ動乱(第二次中東戦争))これに対し
    米ソ両国が、英仏に圧力をかけたため、両国は2カ月後撤退し、
    イスラエル軍も翌年撤退しました。

    1950年代末、エジプトのカイロ大学の、パレスチナ学生を中心に、
    して、パレスチナ解放を目的とした「ファタハ」が結成されました。
    リーダーの、ヤセル・アラファトは、イスラエルに対して、1964年
    初のゲリラ攻撃を行いました。

    他方、1964年に、アラブ諸国の肝いりで、パレスチナ人組織である
    PLOが結成されました。このメンバーは、名のある、政治指導者
    たちで、エジプトのナセル大統領が、コントロールしていました。

    ファタハとPLOの活動により、アラブとイスラエルの緊張は高まり
    続けました。

    1967年、エジプトのナセル大統領は、アカバ湾の封鎖を宣言しました。
    イスラエルにとって、アカバ湾は、インド洋への唯一の航路でした。
    イスラエル空軍は、エジプト各地の空軍基地を攻撃しました。
    (第三次中東戦争)エジプト空軍は壊滅的打撃を受け、戦争は6日間で
    終わり、エジプト側のヨルダン、シリアも停戦を受け入れました。

    イスラエルは、この戦争の勝利により、東エルサレムを含むヨルダン
    川西岸、エジプトの領土だった、ガザ地区を支配下におきます。
    約40万人のパレスチナ人が難民となり、ヨルダン川東岸に逃げ込んだ
    結果、ヨルダンの人口である約200万人の内、74万人がパレスチナ人
    となりました。

    国連総会は、イスラエルによる東エルサレム併合に対して、撤回決議
    を採択しました。国連安保理も、占領地からの、イスラエル軍の即時
    撤退、および、中東地域の全ての国の生存権をうたっていますが、
    イスラエルはこれに反論しました。

    1969年、PLOの議長にヤセル・アラファトが選出されました。
    1970年のヨルダン内戦により、PLOはレバノンに移動しました。
    1973年、エジプト、シリア軍が、イスラエルへの攻撃を開始しました。
    (第四次中東戦争)さらに、OAPEC(アラブ石油輸出国機構)は、
    アラブを支持しない国に対し、石油の禁輸や削減を行いました。

    日本では、この石油ショックがおこり、パニックを引き起こしました。
    1974年、アラファト議長は、国連総会で演説し、国連総会は、PLO
    に対して、国連オブザーバー資格を付与することになりました。

    1977年、エジプトのサダト大統領は、イスラエルを訪問し、1980年に、
    イスラエルとエジプトは国交を回復しました。しかし、1981年には、
    イスラエルが、完成寸前のイラクの原子炉を爆撃して破壊します。
    1982年には、イスラエル軍がレバノン領内に侵攻し、西ベイルートへ
    進軍し、PLOとシリア軍を、2ヶ月間にわたり、包囲しました。

    アメリカの調停により、PLO本部はチュニスへ、約7000人のゲリラは
    各アラブ諸国へ移動しました。今度は、1987年、ガザ地区とヨルダン川
    西岸で、パレスチナ人によるインティファーダ(アラビア語で大衆蜂起
    の意味)が始まります。パレスチナ人と、イスラエル軍が衝突しました。

    パレスチナ人は石や火炎ビンでイスラエル軍と衝突し、多数の負傷者や
    逮捕者が出ました。ゼネスト(大規模な、一斉に行うストライキ)も
    頻繁に行われました。

    1988年、アルジェで開催されたPNC(パレスチナ民族評議会)は、
    パレスチナ国家独立を宣言しました。アラファト議長は、テロの放棄、
    イスラエルの生存権の承認、国連安保理決議の受諾を表明しました。
    
    今でもなお、争いが続いています。

    ユダヤ人の父祖である、アブラハムの本妻の子、イサクがユダヤ人の
    ルーツで、愛人の子、イシマエルがアラブ人のルーツと言われています。
    つまり、ユダヤ人とアラブ人とは異母兄弟の関係だそうです。

    しかし、エジプト以外のアラブ諸国はイスラエルを認めておらず、
    エジプトの地図でも、イスラエル領のヨルダン川西岸地域は、今も
    ヨルダン領となっていて、パスポートにイスラエルへの入国の痕跡が
    あると、エジプト以外のアラブの国には入国できないそうです。

    <イスラエルと日本との関係>

    日露戦争の時に、日本は軍資金の調達に苦労したそうです。
    この戦争では、日本がロシアに勝つということを信じた国が
    少なかったため、ヨーロッパやアメリカの銀行は、日本に
    対する資金の貸付や、日本の国債を購入しようとしません
    でした。

    そのような時、軍資金の調達責任者であった高橋是清は、
    ユダヤ人の銀行経営者であった、ヤコブ・シフに会います。

    シフは日本を援助しようと心に決め、自分の銀行をはじめ
    ニューヨークのあらゆる銀行を説得し、国債の50%の抵当を
    取り付けてくれました。その結果、日本は資金調達に成功し、
    船や武器、また必要な装備を調えることができたそうです。
 

    また、第二次世界大戦開戦後、ナチス・ドイツに追われた
    ユダヤ人は、ドイツを脱出しようと必死になっていました。

    中でも、リトアニアに住むユダヤ人が脱出可能なルートは、
    ソ連からシベリア鉄道を通り、日本経由での脱出ルートしか
    残されていませんでした。日本通過を認めるビザの発行を、
    日本政府は、許可しませんでしたが、リトアニア領事館の
    杉原千畝は、独断でビザを発給することを決断し、6000人
    ものユダヤ人の命を救ったそうです。

    日本とは、お互いに、友好関係があるようです。


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