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    <ヨルダンの歴史>

    ヨルダン周辺の地には、およそ50万年前の旧石器時代
    から、人類が住み着いていたことが知られています。
    紀元前8000年頃には、人類最古級の農業が営まれ、
    その後も、西アジアに発達した文明の、交易の中心地
    として栄えたと言われています。

    また、この地域には、古くから王朝が建てられました。
    ヨルダン川の東には、紀元前13世紀頃からエドム人が
    住み着きエドム王国があり、現在のアンマン周辺には、
    アンモン人によるアンモン王国があり、その他にも、
    ギレアド、モアブなどの王国があったと、旧約聖書の
    には書かれています。

    これらの王国は、エジプト、アッシリア、バビロニア、
    ペルシャによって絶え間なく征服されたり、支配下に
    おかれたりしたそうです。

    紀元前1世紀頃には、ヨルダンの南部に、ペトラ遺跡を
    残したナバテア王国が発展しますが、1世紀〜2世紀に、
    ローマ帝国に併合されました。

    その後、ビザンチン帝国の領土となったヨルダンは、
    633〜636年に、アラブ人のイスラム帝国によって征服
    され、アラブ化・イスラム化が進みました。

    しかし、現在のシリアの首都、ダマスカスを都とした、
    イスラム帝国のウマイヤ朝が滅び、イスラム世界の中心
    がシリア地方から離れると、その辺境にあったヨルダン
    の都市文明も次第に衰えていったそうです。

    その後は、十字軍がこの地に遠征してきます。1099年に
    建設されたエルサレム王国によって、この周辺の地は、
    一時期、キリスト教色が強められたそうですが、その後、
    エジプトのマムルーク朝の支配を経て、1517〜1918年の
    400年間は、シリア、レバノン、ヨルダン、パレスチナ
    を含めアラビア半島は、オスマン帝国に支配されました。

    第一次世界大戦においては、オスマン帝国は、ドイツと
    同盟を組み、イギリス、フランスと交戦しました。
    1916年に、イギリスとフランスはオスマン帝国に対抗
    するため、アラブ人に独立を呼びかけました。それは、
    オスマン帝国との戦いに協力すれば、アラブの独立にも
    協力をするという内容でした。

    これに対し、メッカの太守であった、ハーシム王家の
    フサイン・イブン・アリーは、映画で有名な、イギリス
    のトーマス・エドワード・ロレンス(アラビアのロレンス)
    と協力し反乱軍を組織して、オスマン帝国と戦いました。

    ロレンスとフサインの息子ファイサルに率いられたアラブ
    反乱軍は、オスマン帝国や、駐留ドイツ軍を打ち破り、
    1918年、ダマスカスを占領し、アラブ臨時政府を樹立しま
    した。

    しかし、第一次世界大戦中に、イギリスとフランスの間
    には、実はもう一つ、密約がかわされていました。
    (サイクス・ピコ協定というものです)それは、現在の
    シリア、レバノンをフランス領に、ヨルダン、パレスチナ、
    イスラエル周辺をイギリス領にする、というものでした。

    大戦が終わると、フランス軍はダマスカスを攻撃したため
    アラブ臨時政府は瓦解しました。フランスは現在のシリア
    とレバノンを委任統治領として、実質的な植民地とします。

    イギリスも、フランスと同様、1919年に、現在のヨルダン、
    イスラエル、パレスチナ周辺を、委任統治領として支配下
    におきました。

    1922年、イギリスは、委任統治領を2つの地域にわけ、
     ヨルダン川の西岸全体をパレスチナ、東側をトランス・
    ヨルダンとしました。

    1923年には、イギリスの支援の下、フセインの長子、
    アブドゥッラー・ビン・フサインが迎え入れられて、
    トランス・ヨルダン首長国が成立しました。(一方、
    イラクには、イギリスの後押しにより、フサインの
    兄のファイサルを国王としてイラク王国が出来ました)

    第2次世界大戦中(1939〜1945年)トランス・ヨルダン
    政府は、イギリスに領内の駐留権を認め、枢軸国側の
    イラクに対するイギリスの軍事基地として、国内を
    利用できるようにしました。

    1945年、トランス・ヨルダンは、アラブ連盟の一員と
    なりました。

    1946年に、イギリス政府は、トランス・ヨルダンの委任
    統治を放棄し、トランス・ヨルダンは、正式にイギリス
    から独立することになりました。

    1948年には、イスラエルが建国され、これがきっかけで
    第一次中東戦争が勃発しました。ヨルダンは、エジプト
    などのアラブ連盟諸国軍とともに、イスラエルに進攻し
    ましたが、アラブ側の敗北に終わりました。

    その結果、エルサレムの旧市街を含む、パレスチナ全土
    の80%がイスラエルに占領されたため、160万人のアラブ
    人がパレスチナを追われ難民となり、ヨルダン国内へ
    逃げ込んだそうです。

    1949年、トランス・ヨルダンは、アラブ連盟のメンバー
    からの強い反対にもかかわらず、アブドゥッラー・
    アッラーフ国王の決断により、ヨルダン川西岸地区
    (東エルサレム)を併合し、地区居住者に市民権を認め
    るという条件でイスラエルと休戦しました。
 
    その時点から、川を「横切った」「向こうの」という
    接頭辞の「トランス」は不要となり、国名はヨルダン・
    ハシミテ王国となりました。なお、ハシミテの名は、
    予言者ムハンマドの直系を主張する祖父ハーシムから
    きているそうです。

    しかし、1951年、アブドゥッラー・アッラーフ国王は
    パレスチナ人イスラム過激派に暗殺され、長子である
    タラール1世が後をつぎました。

    しかし、1952年、ヨルダン議会は病弱だったタラール
    を退位させ、タラールの17歳の子であるフセイン1世を
    即位させました。

    その当時は、第一次中東戦争の勝利に勢いづいたイスラ
    エルが国土を拡張し、1950年代初めには、ヨルダン川の
    水利権などをめぐって、しばしば国境線上でヨルダンと
    衝突していました。1955年、ヨルダンが国際連合に加盟
    すると、国境問題は国連に持ち込まれました。

    1958年、エジプトとシリアが合併してアラブ連合共和国
    (UAR)がつくられました。その直後、ヨルダンはイラク
    (ヨルダンと同じハーシム家の王国だった)と、アラブ
    連邦の成立を発表しました。しかし、イラクに共和制革命
    がおこり、王家がほろぼされると、ヨルダンはイラクと
    シリアの接近を懸念し、UARに亀裂をつくろうと工作をし
    ました。そのためフセイン1世とUARのエジプト、ナーセル
    大統領との関係は、緊張したままだったそうです。

    1960年に、ヨルダンの首相ハッザ・マジュリーが暗殺され
    ました。そのときフセイン1世は、ナーセルが暗殺者を
    支援していると非難しました。

    1961年、ヨルダンは、UARから脱退したばかりのシリアの
    新政権を承認しました。これに対し、ナーセルはヨルダン
    との外交関係を中断することで報復したそうです。

    このような背景があり、1960年代の半ばには、アラブ諸国
    はシリア、エジプト、イラクなどの過激派と、ヨルダン、
    サウジアラビア、などの穏健派に分裂しつつありました。

    また、シリアからヨルダンへ拠点をうつしたPLO(パレスチナ
    解放機構)などのアラブ・ゲリラ各派は、ヨルダンを基地と
    してイスラエルに対する攻撃をおこなったため、イスラエル
    はヨルダンに報復しました。

    こうしたこともあり、1966年、ヨルダンはPLOへの支援を
    停止しました。以後、PLOはヨルダンのフセイン1世打倒を
    呼びかけ、シリア国境で衝突を繰り返すようになりました。

    1967年、ヨルダンは、エジプトのナーセルと軍事協力条約
    に署名しました。同年、第三次中東戦争が勃発すると、
    ヨルダンはこの条約にもとづいて積極的に関わりましたが
    イスラエル軍によって空軍が破壊され、ヨルダン川西岸地区
    (東エルサレム)をイスラエルに占領されました。

    この時にも、ヨルダンにはヨルダン川西岸地区(東エルサ
    レム)から、多数のパレスチナ難民が流入してきました。
    その結果、ヨルダンはパレスチナゲリラの拠点となり、
    PLOは再びヨルダン国内で、大きな勢力となりました。

    ヨルダンのPLOは、イスラエルに対するゲリラ闘争、テロ、
    ハイジャックなどを行い、世界の非難を浴びるようになり
    ました。そのためヨルダンは、1970年に、国内から、PLO
    を追放しました。(ブラック・セプテンバー事件)

    1973年、第四次中東戦争では、ゴラン高原でのイスラエル
    軍との対戦に、シリア軍とともに参戦し、アラブ諸国との
    国交を回復したそうです。1974年に、国連がPLOをパレス
    チナ人の唯一の代表だと承認すると、ヨルダンも追従し、
    その見返りに、ヨルダンは他のアラブ諸国から経済、軍事
    援助の約束をとりつけることができたそうです。

    1975年、イスラエルから自国を防衛するために、ヨルダン
    はシリアとの友好関係を確立しました。また、1980年に
    始まったイラン・イラク戦争では、イラクを支持しました。
    このように、徐々にアラブ諸国との関係は改善しました。

    1985年、PLOのアラファト議長とフセイン1世国王が、共同
    行動の枠組み(アンマン合意)に合意しましたが、翌年に
    は破棄されてしまいました。

    1988年には、ヨルダンは、ヨルダン川西岸地区のパレスチナ
    人に対して統治権を放棄し、これにより、PLOとの確執には、
    一応の終止符が打たれたそうです。
 
    1989年、経済の悪化に伴い国民の騒乱が発生します。そして
    22年ぶりに実施された総選挙では、イスラム原理主義者が
    下院80議席のうち34議席を確保しました。

    1990年代以降には、急速に発展する民主化に対し、王室の
    近代化主義に反対する保守派や、イスラム主義派が台頭し、
    国内の不安定要因となったそうです。

    1990年に、イラクがクウェートに侵攻した後(湾岸戦争)、
    イラクと友好関係にあったヨルダンは、調停にのり出し
    ました。しかし失敗し、イラクに対する世界的な経済制裁
    は、イラクと関係が深かったヨルダン経済にも、大きな
    損失をもたらしたそうです。

    さらに、ペルシャ湾岸地域からの大量の難民流入があり、
    国の失業率は30%に増加しました。また、湾岸戦争中に、
    ヨルダンは明らかにイラク寄りの姿勢をとったため、
    アメリカやサウジアラビア等、他のアラブ諸国との関係を
    悪化させました。

    1991年には、ヨルダンとパレスチナの合同代表団が、
    中東和平交渉に乗り出します。また、国王自らが、
    民主化を推進させ、保守的な宗教政党に代わり、1993年
    の下院選挙では、パレスチナ暫定自治推進派が過半数を
    獲得ました。

    1994年、フセイン国王は、イスラエルのラビン首相と
    ワシントン宣言という平和条約へ調印し、イスラエルと
    正式に国交を樹立しました。こうして、46年間にわたる
    両国間の戦争状態には、終止符が打たれました。

    続いて、ヨルダンのマジャリ首相とイスラエルのラビン
    首相は、ヨルダン平和条約に調印し、二国間の関係の、
    完全な正常化と、経済活動や開発など、相互の地域協力
    をすることで、同意しました。

    1995年には、地域経済の開発を目的に中東・北アフリカ
    経済サミットが、首都アンマンで開催されたそうです。

    1996年には、フセイン国王が、サウジアラビアを訪問し、
    湾岸戦争以来悪化していた、両国の関係は修復へ向かい
    ました。さらに、国王は、第三次中東戦争以来、29年
    ぶりに、ヨルダン川西岸のパレスチナ自治区、ジェリコ
    も訪問しました。

    1999年、フセイン国王は死去し、長男のアブドラ2世が
    新国王に即位しました。アブドラ2世は、新首相を任命し、
    ヨルダン経済の立て直しにつとめ、IMF(国際通貨基金)の
    援助をとりつけました。

    アメリカ、イタリア、フランス、シンガポール、日本、
    韓国、中国などを歴訪し、経済援助の要請や、中東和平
    について意見交換を行ったそうです。

    父である、フセイン国王の路線を継承し、中東和平の仲介
    役をすることを明らかにし、関係が悪化していたシリア、
    クウェートとの協議、エジプト、パレスチナ自治政府、
    イスラエル、レバノン、リビアなどの首脳と会談し、
    アメリカのクリントン大統領との橋渡し役をつとめました。

    ヨルダンは、中東和平に反対するイスラム原理主義組織
    ハマスを支援してきましたが、政策を変更し、国内の
    ハマスの事務所を閉鎖し、指導的メンバーを国外に退去
    させて、和平仲介役としての立場をアピールしてるそう
    です。

    しかし、2005年には、首都アンマンにおいて、連続爆破
    テロ事件(死者60名)が発生し、緊張は、いぜんとして
    続いているようです。