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    <カザフスタンの歴史>


    カザフスタンは、ウズベキスタンの北〜東側に広がる
    国なので、一部は、歴史を共有しています。けれども
    カザフスタンの方がウズベキスタンより、さらにロシア
    や中国に近いためロシアや中国の影響を、強く受ける
    こととなりました。

    これに対し、ウズベキスタンは、イランなどのペルシア
    の影響を受けていることが分かります。そして両国とも、
    トルコやモンゴル民族の支配を受けたことも分かると
    思います。興味のある方は、地図を見ながら読むと、
    こうした地理的なことが、より理解しやすいと思います。

    →中央アジアの国の位置関係はこちらを参考
      http://atlas.cdx.jp/nations/asia/asia.htm

    紀元前3世紀から1世紀頃にかけて、カザフスタン周辺に、
    最初の氏族制の共同体が出現したそうです。

    6世紀から8世紀には、テュルク系(トルコ系)民族の、
    ハン国(モンゴル高原から中央アジアを中心とした、
    テュルク系およびモンゴル系の遊牧民王朝のこと)
    この地を支配していたそうです。
    
    9世紀から12世紀にかけては、カザフスタンの周辺地域
    に、オグズ人、キマク人、カラハニド人、キプチャク人、
    等が流入したそうです。キプチャク人とは、テュルク系
    遊牧民に起源をもつ部族集団だそうです。

    特に、11世紀後半にはセルジューク朝(イスラム化した
    トルコ人)との戦争が始まり、12世紀前半には、契丹
    (キタン、キタイとも読む。遊牧民族)の侵入が起こり
    ました。

    そして13世紀初めには、カザフスタン周辺は、チンギス
    ハーン(モンゴル人)により征服されました。

    この征服のきっかけは、チンギス・ハーンが、この土地
    を支配していた、トルコ系のホラズム王国の町オトラル
    に使節団を送ったそうですが、オトラルの城主は使節団
    を皆殺しにしたため、翌年の1219年、チンギス・ハーン
    は報復のためオトラルの町を攻め落としたそうです。

    この「オトラル事件」を機に、チンギス・ハーンの西方
    遠征が始まり、遠くヨーロッパまで遠征することになった
    そうです。現在でも破壊の跡を知ることが出来るそうです。

    15世紀中頃になり、カザフ民族の名が史上初めて登場し
    たそうです。カザフ民族はウズベク族と別れ、キプチャク
    草原(カザフスタン)に勢力を拡大し、15世紀末には、
    カザフ・ハン国を建国しました。

    16世には、東はバルハシ湖、西はウラル山脈、カスピ海
    西岸までの、広大な領土を支配下においたそうです。

    17世紀頃から、カザフ民族は、主として、大ジュズ(東部)
    中ジュズ(中部)、小ジュズ(西部)の3部族に分かれて
    草原に居住していました。

    しかし18世紀初めに、ジュンガル人の襲来を受けました。
    また、1735年には、ロシアがウラル山脈の南端に、オレン
    ブルグ要塞を建設し、カザフスタン経営の根拠地とします。
    1730年代〜1740年代には、小ジュズと中ジュズは、ロシア
    国籍を自発的に受け入れ、ロシア人による入植が始まった
    そうです。1783年〜1797年には、カザフ人の反ロシア暴動
    がおきたそうです。

    また、同じく18世紀中頃には、中国からも支配の手が伸び
    清朝への名目的な藩族国となって、勢力下に入りました。

    1860年代には、ロシア人農民が大量に、カザフスタンに
    移住し、カザフスタン領域はロシアに併合されました。

    1917年のロシア革命後、赤軍の支配下に入り、ソビエト
    連邦の下において、カザフ・ソビエト社会主義共和国が
    樹立されました。次いで、1920年、ロシア革命後の内戦を
    経て、ロシア共和国を構成する国のひとつとして、
    「キルギス・自治ソヴィエト社会主義共和国」が創設
    (首都:オレンブルグ)されました。

    1924年には、中央アジアの民族間国境設定により、国境線
    が変更されました。翌1925年には、首都をオレンブルグから
    クズィル・オルダへ移し、国名を「カザフ・自治ソヴィエト
    社会主義共和国」に変更されました。

    1925には、首都をアルマトイへ移転します。1929年には、
    ロシア共和国から切り離され、「カザフ・ソヴィエト社会
    主義共和国」が創設されソ連邦の構成共和国となりました。

    1990には、共和国主権が宣言されます。1991年には、ソ連
    崩壊に伴い、国名を「カザフスタン共和国」と変更し独立
    を宣言し、独立国家共同体(CIS)に加盟しました。

    1997年には、首都はアルマトイよりアクモラ(現アスタナ)
    へ移転されました。移転の理由としては、アルマトイは、
    近年大地震に襲われる危険性が高いこと、また、ロシア人が
    多く居住しているカザフスタン北部の分離運動を事前に予防
    すること、アルマティは中国国境に近すぎることなどが挙げ
    られているようです。

    1998年には、アクモラは、アスタナと改称されました。
    アクモラの発音が、カザフ語の「白い墓地(AK- MOLA)」を
    連想させるため、ナザルバエフ大統領が、アスタナ(ASTANA)
    カザフ語で「首都」の意味、と改称したそうです。

    ナザルバエフ大統領は、ソ連のゴルバチョフ政権下で、
    中央アジアの代表として、頭角を現しました。今までに
    20年近くも、国政を運営し、政権を独占しているそうです。

    2007年、カザフスタン議会は、憲法改正案で大統領任期を、
    7年から5年に削減、3選禁止にすることに決定しましたが、
    ナザルバエフ大統領は、独立国家カザフの創始者であると
    いう理由で、大統領の任期は適用されないそうです。
    議会により、「人民英雄」の称号も与えられ、終身大統領
    とする決議案が、圧倒的賛成多数で可決されました。
    けれども、近年は独裁者的な一面も出てきているそうです。

    <日本との関係>

    前号のウズベキスタンと同様に、カザフスタンでも
    第2次世界大戦後に、日本人の戦争捕虜が連行され、
    厳しい強制労働に従事させられたそうです。
    
    また同時に、スターリン時代には、ソ連国内で何千万
    人もの人々が囚人として収容所に送られたましたが、
    特に、カザフスタンには様々な種類の収容所、労働
    キャンプが設けられ、ほとんど国全体が収容所とも
    いえる様相を呈していたそうです。
    アルマトイではそうした人々の埋葬地があるそうです。