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<クウェートの歴史>
クウェートの歴史は、16世紀頃から大きく動き出した
ようです。まず、16世紀になると、ヨーロッパの列強
諸国が、湾岸地域へも進出するようになりました。
その時、ポルトガル人が、港を建設した時に、遊牧民
から襲われるのに備え、港の居住区を高い塀で囲んで
城砦都市にしたことから、クウェート(アラビア語で
城塞都市)という名前がついたそうです。
16世紀頃には、現在のクウェート周辺はオスマン帝国
の支配下にあり、統治拠点はバスラにあったそうです。
その後、18世紀になると、アラビア半島中央部から移住
してきたウトゥーブ族という部族集団が、クウェートの
基礎をつくったそうです。現在のクウェートを支配して
いるサバーハ家は、1756年頃、名目上はオスマン領で
したが、この地域の統治を開始し、首長となりました。
この頃のクウェートは、漁業や真珠の採集、交易が主な
産業でした。ついで、19世紀初期には、クウェートは、
貿易港として繁栄していたそうでうす。
19世紀に入ると、オスマン帝国は支配を強化するため、
この地に軍事介入を繰り返しました。その結果、1871年
には、サバーハ家は、オスマン帝国の宗主権を認める形
で、現在イラクの県である、バスラ州の一部として、
独自にこの地域を支配したそうです。
しかし、1899年に、ザバーハ家は当時、中東への進出を
行っていたイギリスを頼って、イギリスの保護国になる
条約に調印しました。この調印は、イギリスの軍事力に
よって保護される代わりに、イギリスの許可なくして、
他の勢力と交渉もしないし、援助も受けないというもの
だったそうです。
1913年には、宗主国のオスマン帝国と、イギリスの間で
協定が結ばれ、クウェート周辺の地域は、1914年に、
イギリスの自治保護領となりました。
その後、第一次世界大戦(1914年〜1918年)において、
オスマン帝国は敗北し、この地域は完全にイギリスの
影響下におかれるようになりました。
なお、1920年代初期には、クウェートはサウジアラビア
から軍事的に圧力がかかっていたそうです。
1934年になると、石油開発の認可がイギリスとアメリカ
の共同資本に与えられ、1936年に最初の油井が発見され
ました。さらに、1938年には、世界第二位の油田である
ブルガン油田とうい大油田が発見され、この地域の原油
埋蔵量は非常に豊かであることが判明しました。
第二次世界大戦(1939年〜1945年)により、石油湯開発
は一時中断しました。しかし戦後、アメリカとイギリス
の合弁でできたクウェート石油会社が、1946年より生産
を開始し、石油の輸出が始まりました。その収益のため、
クウェートの保健衛生、教育、生活水準は劇的に向上し
たそうです。
1961年6月19日、イギリスからクウェートは独立しました。
立憲君主国として、1962年に、憲法も発布されました。
最初の国会選挙は、1962年後半に行われたそうです。
1963年にはアラブ連盟と、国際連合に加盟しました。
イスラエルとは、クウェートは長い間、対決姿勢でした。
特に、1967年の第3次中東戦争後は、アラブの最前線の
国々対して、戦いの継続のために、多額の費用も、支出
したそうです。
1973年以降は、石油価格の値上げにより収入が増えました。
1975年に、クウェート石油会社は、完全に国営化しました。
1976年になると、首長は憲法を停止し、国会は政府の職務
を不可能にしているとして、国会を解散させました。また
首長は皇太子に首相を命じ、新しい内閣ができました。
1980年代のイラン・イラク戦争では、クウェートはイラク
を支援しました。イランのイスラム革命が国内に飛び火
することを、クウェートの支配者層は、危惧したようです。
この頃、クウェート人はアラブの中でも最高の生活水準で
したが、国内で多数を占める外国人労働者との経済的な
格差は広がるばかりだったそうです。
結局、国会の選挙は、1981年まで行われませんでした。
その後、選挙法が改正され、急進派は議席を得ることが
できないようになりましたが、さすがに、これは、国会で
多数を占める保守層からも異議申し立てがでたそうです。
クウェートは、湾岸協力会議加盟国中では唯一、議会を
保持していましたが、1986年に、国会は再び勅令により
解散させられてしまいました。
1989年、そして1990年、憲法の回復と、国会の再招集を
求めて大規模なデモが起こりました。しかしそれらのデモ
は、ことごとく警察によって解散させられました。
1990年、諮問委員会の選挙が行われました。諮問委員会は
4年の任期で、憲法の改正について政府に助言を与えると
いうものでしたが、民主勢力は以前の国会の再開を求め、
諮問委員会を違憲であると非難したそうです。
また、1980年代に入ると、イラクのサッダーム・フセイン
大統領が、クウェートはイラクの領土であり、イギリスに
よって不当に分離され、現在は、アメリカ合衆国がそれを
引き継いでいる、という発言を繰り返すようになります。
1990年、イラクは、アラブ連盟の事務総長に書簡を送り、
この中で、クウェートはOPECの石油生産割り当てを越えて
生産しており、クウェートの石油の過剰生産で、イラク
経済は損害を受けていると主張しました。また、イラク
との国境で、クウェートが、イラク領の油田から石油を
盗んでいると非難しました。
そして、1990年、イラクはクウェートに侵攻し、その日の
内にクウェートを制圧しました。王族はサウジアラビアに
避難しました。国連安全保障理事会やアラブ連盟は、国外に
逃亡した首長のジャービルを、クウェートの合法的統治者
として支持し続けました。そして、湾岸戦争が始まりました。
国際社会は国連で非難決議を出し、1991年に、多国籍軍が
クウェートに進軍を開始してイラク軍を攻撃し、3日後に
イラクの7ヶ月に及ぶ占領から、クウェートを解放しました。
湾岸戦争が終結し、1992年の初めには、クウェートは、
国内のパレスチナ人を国外に退去させ、また、アメリカに
多国籍軍の費用分担金として、165億ドルという大金を
支払ったそうです。
民主化を求めるグループは、政治、経済、宗教の問題に関し、
このような、首長家が主導である政府に反対していました。
1992年に、新しい国会選挙が行われました。その結果は、
首長家が主導である政府にショックを与えました。それは、
総議席50の内、30議席以上を、民主化が獲得したからです。
さらに、西側各国により民主化の要請が行われ、女性の
参政権などが考慮されることとなりました。
1994年には、イラク軍は、再びクウェート国境に集結しま
した。国連はこれを非難し、イラク軍の即時撤退を求める
決議を採択しました。こうして、イラクのフセイン大統領は、
公式にクウェートの統治権とその国境を認めたそうです。
しかしその後も、クウェートのイラクに対する不信は消え
ませんでした。アメリカ等と軍事演習をつづけ、1996年に、
イラクがクルド人地区に進攻した際には、アメリカによる
ミサイル攻撃を支持しました。
1996年の議会選挙では、1992年の選挙で多数派となった
民主化を求めるグループは後退し、代わりに、親政府派が
勢力をのばしました。
1999年の選挙では、再び、民主化を求めるグループが多数
を占めましたが、新議会は、女性の参政権を認める首長布告
を無効とし、同様の内容をもつ法案をも否決しました。
イラクとは2002年のアラブ首脳会議で一応、和解したものの、
その直前に開かれたイスラム諸国会議機構の首脳会議でも、
イラク代表と非難の応酬があり、フセイン政権のイラクとの
関係は冷え切ったままでした。そして、2003年のイラク戦争
では、アメリカとイギリスの両軍に出撃基地を提供しました。
イラク戦争は2003年5月1日のアメリカによる「戦闘終結宣言」
によって、連合軍の圧倒的勝利という姿で、終了しました。
しかし、2003年7月初めに行なわれた議会選挙では、議会の
権限拡大や女性参政権をもとめる民主化グループが大きく
後退し、中東の民主化を打ち出しているアメリカのブッシュ
政権にとっても痛手となっているようです。