健全な生活トップ > アジアの国々の歴史 >ラオスの歴史


    <ラオスの歴史>

    ラオスの初期の歴史は、隣国の中国(元)、ベトナム、
    カンボジア(クメール人)、タイ(シャム)、ミャンマー
    (元ビルマ)からの諸王朝との戦が主になります。

    ラオスの最初の住民はカー族といわれ、5世紀にはすでに
    カンボジアの扶南という国の宗主権の下で、現在のラオスの
    地に居住していたそうです。

    その後は、カンボジアの真臘王国の支配下に入りました。
    真臘王国はクメール人の国家で、その後継国家がアンコール
    朝であるそうです。

    その間、ラオ族をはじめとするタイ系の民族が、南詔(中国
    雲南省辺り)から南下を始め、カー族にとってかわりました。
    その後、8〜10世紀頃には、スワー候国があったそうです。
 
    12世紀にはラオ族とほかのタイ系民族はムアンとよばれる
    部族国家を独自に形成していたとみられるそうですが、この
    時代の遺物の多くは、今も伝説に包まれているそうです。

    13世紀前半の頃、元の侵攻に対し、現在のラオスの国土まで
    ラオスの民族は南下しました。しかしその後、14世紀中頃は、
    アンコール朝(カンボジア)の王の娘と結婚した、ラオ族の
    王子ファーグム(ファ・グン将軍)が、周辺のムアンを併合
    して、ルアンプラバーンに、最初のラオスの公国としてラン
    サン王国を樹立しました。

    ランサンとは100万の象という意味だそうです。ファーグムは
    タイのアユタヤ朝やベトナムのチャン朝と交戦しました。また、
    クメール人の王妃の努力によって、小乗仏教(上座部仏教)を
    が普及しました。

    1373年には、ファーグム王は退位し、息子のサムセンタイが
    即位しました。王国はさらに強化し、中国の明朝に朝貢して
    いました。その後、ベトナムのレ朝の侵攻により、1479年に
    王都は陥落しましたが、まもなくベトナム人を撃退し、長期
    にわたって平和な時代がおとずれました。

    16世紀に王国の領域は最大となりました。1546年、ポーティ
    サラ王は、隣接するタイのチェンマイ(ラーンナータイ)王国に、
    長子のセーターティラートを王として送りこみました。
    その結果、チェンマイ(ラーンナータイ)王国の覇権を握って
    いたビルマ族との間に、長期の争いが生じることになりました。

    1551年にランサン国王に即位したセーターティラートは、
    ビルマ族の侵攻をふせぐため、1563年にビエンチャンに首都
    を移しました。タウングー朝ビルマ王国軍のあいつぐ攻撃を
    うけて、1774年にビエンチャンは陥落し、1791年までビルマ
    の支配下に入りました。
 
    1603年に、ボラウォンサー王がビルマからの独立を宣言し、
    1637年に即位したスリニャウォンサー王の治世には仏教文化
    が栄え、ラオス史上の黄金時代といわれました。1641年には
    オランダ商人が交易のために渡来しているそうです。

    17世紀末にスリニャウォンサー王が没したのち、王位継承を
    めぐる内紛がおこり、1707年、ランサン王国は中部のビエン
    チャン王国と北部のルアンプラバン王国に分裂。さらに、
    1713年にはビエンチャン王国から南部のチャンパサク王国が
    分立し、ランサン王国は3つの王国に分裂して争いました。

    1820年代にラオスはシャム(タイ)に対して戦争を行いました。
    戦争に負けたビエンチャン王国は1778年にシャムの属国となり、
    同時にルアンプラバン王国とチャンパサク王国もシャムから、
    宗主権の承認を強いられました。

    ビエンチャン王国のチャオ・アヌ王は、1827年に独立を主張
    してシャムに侵攻しましたが、逆に王都ビエンチャンを占領
    され、ビエンチャン王国は滅亡しました。

    結局、この戦争で3つの王国全てがタイの支配下に入りました。
    18世紀後半に、ランサン王国は完全に終わりを迎えました。
    また、ベトナムの圧力も強くなったそうです。

    この後、フランスによる、ラオスの植民地化が進むように
    なりました。19世紀後半までに、ベトナムのトンキン、
    アンナン地域に、フランス領のインドシナが作られました。
    さらに、1993年には、フランスはタイに対して仏国・シャム
    協約調印に基づき、フランスにラオスの全てを譲渡させました。

    20世紀に入って、第2次世界大戦の4年間は、日本の占領地域
    になりました。1945年に、日本軍の後ろ盾によって、ルアン
    プラバン国王のシー・サワン・ウォンがラオスの独立を宣言し
    ました。

    しかし、戦後に日本が撤退すると、民族主義独立運動組織
    であるラオ・イッサラ(自由ラオス)が臨時政府を組織して、
    臨時政府をビエンチャンに樹立しましたが、1946年に、再び
    フランス軍によって制圧され、ラオスはフランス領に戻る
    こととなりました。その後、再び、1949年に、ラオス王国は
    フランスの勢力下で、独立国となりました。

    そして、1950年には、ネオ・ラオ・イサラ(自由ラオス戦線)
    が結成され、フランスに対して闘争が起りました。その結果、
    1953年、ラオス王国として、完全独立が達成されました。
 
    ネオ・ラオ・イサラ(自由ラオス戦線)は、パテト・ラオ
    (ラオス愛国戦線)と名前を変更しました。しかしその後、
    王党派、中立主義者と共産党の間で闘争が始まり、数々の
    内戦や、アメリカとのベトナム戦争に巻き込まれ、多数の
    寺院が破壊されることとなりました。

    1954年には、ジュネーブ協定の中のラオス条項によって、
    フランスのラオス侵攻に終止符がうたれました。ベトミン軍と
    フランス軍はラオスから撤退し、パテト・ラオも、ラオスの
    北部2省に移動させられ、国際休戦監視委員会が停戦を監視
    するために設置されました。

    インドシナ半島に対するフランスの影響力が低下すると、
    かわって、1955年から王国政府に軍事援助を始めた、アメリカ
    合衆国の影響力が増大していきました。    

    1957年に、中立派の王国政府首相プーマと、異母兄弟で
    パテト・ラオの議長のスパヌウォンは、交渉の結果として
    連合政府を樹立しました。

    しかし、パテト・ラオに危機感をもつ右派勢力はプーマを
    排除し、1958年には、保守的で親米派のプイ・サナニコーン
    内閣をつくり、パテト・ラオ閣僚らを逮捕、投獄しました。

    こうして、サナニコン政府とパテト・ラオとの内戦が始まり
    ました。パテト・ラオがゲリラ戦を再び始めると、ソ連が
    パテト・ラオを、アメリカが右派勢力を支援して、ラオスの
    内戦は東西の冷戦を反映した代理戦争の様相をしめすように
    なりました。

    1960年には、中立派のプーマによる政権が樹立されましたが、
    左、右、中立の3派に分裂してしまいました。こうした中、
    アメリカに支持された右派軍の反乱が起こり、プーマは、
    カンボジアへの亡命を強いられました。そして、反共主義者の
    ブンウムが首相に就任しました。

    この頃、ラオスはベトナム戦争に引き込まれ始めていました。
    北ベトナム軍は、南ベトナムで戦う兵力の補充ルートとして、
    東部、南部ラオスのジャングルの小道(ホーチミン・ルート)を
    利用していました。このことが、後で問題になります。

    1961年に、ラオス内戦の国際的な拡大を懸念したアメリカ、
    ソ連、イギリスの呼びかけで、3派(パテト・ラオ=左派、
    中立派、右派)間の停戦が実現し、ラオスに関する14カ国
    会議がジュネーブで開かれました。中立派軍と手を結んだ
    パテト・ラオは、国内のほぼ半分の支配権を得たそうです。

    1962年には、プーマを首相とする3派(左、右派、中立派)
    による、第2次連合政府ができましたが、1963年には、
    内戦が再開しました。特に、ビエンチャン王党派とパテト・
    ラオとの戦闘は激しくなりました。

    中立派内にも対立が生じ、1964年に、プーマは右傾化した
    一部の中立派と右派とを統合しましたが、パテト・ラオは
    これを1954年に同意された、ジュネーブ協定への違反とし、
    1965年には、パテト・ラオとプーマの政府軍の間で公然と
    戦闘が始まりました。

    パテト・ラオは、北ベトナム(ベトミン)と協力していた
    ため、ベトナム戦争になると、アメリカは、ラオス東部の
    ホーチミンルートの攻撃を始めました。特に、1970年に
    激化しました。

    1971年には、南ベトナム軍が同ルートを切断するために、
    ラオス南部に侵攻しましたが、パテト・ラオによって撃退
    されました。

    こうして、パテト・ラオが軍事的優位にたつと、1972年
    から、ビエンチャンで和平に関する会談が開かれました。

    1973年には、「ラオスにおける平和回復と民族和合に
    関する協定」が調印されました。そして、1975年に、
    ラオス人民民主共和国が建国されました。

    1974年4月、プーマを首班とする第3次連合政府が成立
    しました。しかし同年、ベトナムでサイゴンが陥落すると、
    大部分の王党派は、また、フランスへ亡命しました。

    1975年に、カンボジアとベトナムにおける解放勢力の
    勝利で勢いを得たパテト・ラオは、全ラオスを制圧する
    こととなりました。

    そして、同年に、全国人民代表会議が開催されて、王制の
    廃止、連合政府の解体、ラオス人民民主共和国の成立が
    宣言されました。プーマ前首相は、政府顧問に就任しま
    した。実権はラオス人民革命党書記長で、首相に就任
    したカイソンが掌握しました。

    1975年以来、政府は企業を国営化し、私営企業は閉鎖
    されていましたが、1981年に経済的困難に直面し、政府は
    第1次5カ年計画を実施しましたが、共産主義政権下での
    不平不満は拡大し、1982年にはおよそ30万人のラオス人が
    母国から脱出したとみられるそうです。

    政府は、1986年の第4回党大会で採用された、
    「チンタナカーン・マイ(新思考)」の理念に基づいた
    経済改革を実施して、国家計画経済から、規制を緩和し
    開放市場経済への転換を始めました。

    体制を支援するためにラオスに駐留していた、約5万人の
    ベトナム軍が90年に撤退すると、ベトナムの影響力も、
    次第に減少していきました。

    1991年に、大統領の権限を拡大する憲法が制定され、
    カイソンが大統領となりました。そして、1992年に、
    カイソンが死去すると、プームサワンが新大統領に就任
    しました。プームサワンと、ラオス人民革命党書記長の
    シパンドンの新体制は、カイソン政策の継承を表明しま
    した。

    1996年の人民革命党の全国大会で、党人事の大幅な変更が
    行われ、経済開放政策の行き過ぎに対する抑制が、図られ
    ました。また、1997年から、ラオスのASEAN正式加盟が
    承認され、ミャンマーとともに正式に加盟しました。

    ついで、1998年にはASEAN自由貿易地域(AFTA)に参加し、
    2008年までに、関税の引き下げを実施することにも
    なりました。

    1998年の国民議会では、新大統領にカムタイ・シパンドン
    ラオス人民革命党書記長が選出されました。2000年には、
    小渕恵三首相が日本の首相としては、33年ぶりにラオスを
    公式訪問しました。