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    <レバノンの歴史>

    レバノン周辺は、紀元前15世紀頃〜紀元前8世紀頃に
    かけて、都市国家を形成し、地中海を舞台に活躍した
    フェニキア人の地であったそうです。

    フェニキアの人の文化は、地中海の交易活動に伴って、
    アルファベットなどを広め、古代ギリシアやローマの
    発展の基礎となりました。
 
    しかし、紀元前9世紀〜紀元前8世紀にかけて、内陸の
    国である、アッシリアの攻撃を受け、フェニキア地方
    の諸都市は、政治的な独立を失っていったそうです。

    アッシリアの滅亡後は、アケメネス朝ペルシア帝国の
    支配に入りました。ペルシア帝国の支配の下でも、
    海上交易ではギリシアの都市国家と競合して繁栄して
    いたそうです。

    特に、テュロスという都市国家は、フェニキア人の
    造った都市国家の中で、最大級に発展しました。

    しかし、アケメネス朝ペルシアを滅ぼした、アレク
    サンドロス大王によってテュロスも征服されると、
    完全にギリシャ系の勢力に取り込まれ、ヘレニズム
    世界の一部となってしまったそうです。

    その後、民族としてのフェニキア人は消滅したそう
    です。その後、レバノン周辺の地域はローマ帝国に
    征服され、中世にはイスラム世界の一部に組み
    込まれたそうです。

    16世紀からは、レバノンは、オスマン・トルコの支配
    下にありました。その頃の、レバノンの山岳地帯は、
    キリスト教のマロン派、イスラム教のドルーズ派と
    いった、西アジアのマイナーな宗教の信者の避難場所
    となっていました。オスマン・トルコからも自治を
    認められて、独自の共同体を維持していたそうです。

    19世紀頃からは、キリスト教のマロン派に影響力を
    持つカトリック教会を通じて、レバノンは、次第に
    ヨーロッパの影響を、強く受けるようになっていた
    そうです。

    しかし、それと同時に、レバノンは、イスラム教の
    宗派の枠を越えたアラブ民族主義の中心地でもあった
    そうです。

    第一次世界大戦後、オスマン・トルコの崩壊により、
    1920年には、キリスト教徒が多くフランスにとって
    統治しやすかったレバノン山地は、シリアから切り
    離され、国際連盟の委任統治領という形でフランス
    委任統治領レバノンとなったそうです。

    この結果、レバノンはこの地域に歴史的に根付いた
    マロン派と、カトリック、プロテスタントを合わせ
    キリスト教徒の割合が35%を越え、イスラム教シーア派、
    スンニー派などの他宗派に、優越するようになりました。

    第二次世界大戦中の1945年に、レバノンは正式に独立し
    金融・観光などの分野で、経済を急成長させました。
    首都のベイルートは、リゾート地としてにぎわっていた
    そうです。多くのヨーロッパの企業が、オフィスをベイ
    ルートに置いていたそうです。

    その後、レバノンの状況は、次第に変わっていきます。

    1948年のイスラエルの建国宣言によって、イスラエルと
    アラブ諸国との間で起こった、第1次中東戦争により、
    イスラエル軍に追われ、難民となったパレスチナ人が、
    レバノン、ヨルダン、シリアへ避難しました。

    レバノンへ避難した、30万人といわれるパレスチナ人
    難民は、まずベッカー高原、ついで、ベイルートの難民
    キャンプへ住み始めました。また、難民と同時に、
    1970年までヨルダンを本拠地としていた、パレスチナ
    ゲリラ(PLO)は、ヨルダン政府により国外に追放
    されました。(ブラック・セプテンバー事件と呼ばれ
    る事件だそうです)

    PLOが移動したのはレバノン南部でした。PLOは
    ここを本拠地とし、イスラエルに対し、ゲリラ攻撃や、
    ロケット砲による攻撃を行ったため、イスラエル側も
    報復に出ました。このため、レバノンでは、次第に
    治安が悪くなっていきました。

    また、レバノンの内情にも不安がありました。レバノン
    では、大統領と軍司令官をマロン派キリスト教徒、首相
    をスンニー派イスラム教徒が担当し、国会議長には、
    シーア派イスラム教徒にポストが与えられていました。

    国会議員の割り当ては、キリスト教徒:イスラム教徒は
    54:45でしたが、公務員、軍、私営企業においても、
    イスラム教徒に対する差別待遇が存在しており、権力は
    キリスト教徒が握っていたそうです。

    1970年代には、イスラム教徒の人口は、キリスト教徒の
    人口をはるかに越えていたにも関わらず、半分近い人口
    のイスラム教徒は政治的な不満を感じていました。

    そして、PLOの流入によって、宗教や宗派の間での
    争いが表面化していきました。1975年には、マロン派
    キリスト教民兵による、パレスチナ難民への攻撃を
    きっかけとして、各地で衝突が起こります。そして、
    イスラム教徒とキリスト教民兵の間で、内戦へと発展
    しました。(レバノン内戦です)

    1976年に、隣国のシリア軍が、レバノンの要請により、
    平和維持軍として進駐し、とりあえず停戦しました。
    しかし、1978年には、イスラエル軍が、レバノンの南部
    から侵攻したため、再び、国内は混乱します。

    イスラエルは、レバノン国内のPLOが、国境を越えて
    イスラエルの北部を攻撃してくるのを防ぐ目的で、
    イスラエルの代理軍として、キリスト教徒のレバノン軍
    将軍を司令官とした、南レバノン軍(SLA)を設立しました。

    この後、国連によりイスラエル軍は撤退し、国連平和
    維持軍(UNIFIL)が展開するようになりした。

    混乱の中で、周辺各国、アメリカや欧州、ソ連など大国
    の思惑も入り乱れ、内戦が終結した後も、断続的に紛争
    が続きました。米英仏などの多国籍軍(MNF)も進駐しま
    したが、混乱を抑えきれず、結局、多国籍軍は数年で
    撤収し、国土は非常に荒廃しました。

    さらにまた、シリアや、イスラム革命を遂げたイラン
    の支援を受けた、ヒズボラなどのイスラム過激派が
    勢力を伸ばし、治安はさらに悪化します。

    1982年、レバノンの武装勢力から攻撃を受けたとして
    イスラエル軍はレバノンの南部から再び侵攻します。
    そして、PLO本部のあった西ベイルートを占領しました
    (レバノン戦争・ガリラヤの平和作戦)

    結局、アメリカによる調停が成立し、PLOの幹部、戦闘
    員は、他のアラブ諸国に避難しました。これにより、
    レバノンでのPLOの影響力は壊滅したそうです。

    PLO撤退の数週間後、キリスト教民兵の指導者であり、
    レバノンの大統領バシール・ジェマイールが暗殺され
    ました。暗殺後、イスラエル軍は西ベイルートに入り、
    イスラエル軍にバックアップされたキリスト教民兵は、
    難民キャンプのパレスチナ人たちを虐殺したそうです。

    その後、弟のアミン・ジェマイールが大統領に当選し
    ました。イスラエル軍は撤退しましたが、その1年後
    には、イスラエルの保護下にあったベイルートの東で、
    ドゥルーズ派イスラム教民兵と、キリスト教民兵との
    間で、戦闘が始まりました。

    この時は、首相のセリム・アル・ホスの要請により、
    シリア軍が再び西ベイルートに入り、シリア軍は次第
    にイスラム地区を支配下に置いていったそうです。

    1988年、任期満了にともない、ジェマイール大統領は、
    首相に同じキリスト教徒のミッシェル・アウン将軍を
    指名しました。

    1989年、ルネ・ムアマドが大統領に選出されました。
    しかし、当選17日後、ムアマドは暗殺され、代わりに
    エリアス・ハラウィが大統領となりました。

    ハラウィは、穏健なマロン派キリスト教徒で、シリア
    とも友好関係を持っていましたが、アウン将軍は、
    新大統領を認めず、レバノンのシリア軍に対して戦闘を
    始めました。1990年にシリア軍はアウン将軍に勝利し、
    レバノンに安定をもたらしたものの、ヒズボラという
    急進的で過激なイスラム教シーア派の政治組織に対する
    援助やテロの容認など、国際的な批判を受けました。
    アウン将軍は、1991年にフランスへ亡命したそうです。

    ハラウィとレバノン軍は、シリアの協力を得て、再び
    ベイルートに秩序をもたらし、レバノンの南部を除き、
    一応の和平が実現しました。 この、後、シリアが撤退
    するまでの約15年間は「パックス・シリアナ(シリアに
    よる平和)」とも呼ばれます。

    1992年の選挙では、イスラム原理主義者でシーア派の
    グループであるヒズボラは、14議席を獲得しました。
    1993年、ヒズボラの攻撃によりイスラエル兵が死んだ
    ことで、イスラエルはレバノン南部の村々を攻撃し、
    30万人以上が避難したそうです。この攻撃は、アメリカ
    の干渉により中止されました。

    1996年には、イスラエル国内で連続爆弾テロが発生し、
    ヒズボラの犯行と判断したイスラエル軍は、レバノン
    南部を空襲しました。(怒りのブドウ作戦)

    この時、レバノンで難民救援活動を行っていた、国連
    レバノン暫定駐留軍フィジー軍部隊のキャンプも集中
    砲撃され、イスラエルも非難されたそうです。

    イスラエル軍は2000年にレバノン南部から撤収しました
    が、そこに素早くヒズボラが展開し、イスラエルに対し
    攻撃を続けているそうです。

    2005年には、ハリーリ前首相が、爆弾テロにより暗殺
    され、政情は悪化しました。この事件の要因となった、
    シリア軍のレバノン駐留に対し、国際世論も同調し、
    シリア軍は撤退しました。

    2006年に、ヒズボラがイスラエル兵士2名を拉致します。
    イスラエル軍は報復として、南部の発電所などを空爆
    しました。(レバノン侵攻)空爆は全土に拡大されて
    ラフィク・ハリーリ国際空港など公共施設が被災し、
    ベイルートも海上封鎖されました。

    国連レバノン暫定軍の施設も空爆され、国連職員4人が
    死亡しました。空爆はさらに続きました。死者は1000人
    を越えました。結局、一月後に、イスラエル・レバノン
    両政府が停戦決議(国連安全保障理事会)受け入れを表明
    したので、イスラエル軍が撤収しました。

    その後、街の再建は進んでいるものの、観光客は減少
    しているそうです。