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    <モルジブの歴史>

    モルジブは、紀元前2000年頃から、インド洋周辺の、
    いくつかの海洋国の貿易の交差点として知られていた
    との学説も、多いそうです。アラビア、中国、インド
    さらには、ノルウェーや西アフリカでも、貨幣に使わ
    れた、モルジブの貝殻が残っているそうです。

    これらの、古代の海洋国の一つでは、太陽崇拝をする
    人々(レディン)が住んでいて、彼らの信仰や慣習の
    遺産は、今日でもなお残っているそうです。

    例えば、イスラム教では、モスクは聖地であるメッカ
    に向かって建てられますが、モルジブでは、多くの
    モスクはメッカにではなく、太陽の方向を向いている
    ことがあげられます。

    レディンの人々の後は、紀元前から、インド南部から
    ヒンズー教徒が、そして、セイロン(現スリランカ)
    から、仏教徒が移住し初めたといわれているそうです。
    
    12世紀半ばには、アラブ人からイスラム教が伝わった
    そうです。モルジブの国王はイスラム教に熱中し、
    その後、6つのスルタン王朝が続いたそうです。
  
    16世紀に入ると、ポルトガルが、インド洋の貿易ルート
    を広げるためにやってきました。モルジブでとれる貝殻、
    香水の重要な成分であるアンバーに、ポルトガル人は、
    強い興味を持ったようです。

    その時、モルジブでは、マレとヒラリという、2つの
    王朝がありました。

    ポルトガルは、マレに対して、要塞と設備を建設する
    許可を得たそうです。しかし、その後、ポルトガル人
    アンドレアス・アンドレは、マレの支配を許可した、
    スルタン(アリ5世)を殺し、1558年にマレを占拠し、
    以後、ポルトガルの支配が続きました。

    そして、その後、ポルトガルは、モルジブの大部分を
    支配したそうですが、1573年に、島の長であった、
    モハメエド・タクルファーンがポルトガルの主要守備
    隊を破った時、ポルトガルの占領は終わったそうです。

    その後は、再びスルタンによる統治が行われるように
    なりましたが、今度は、ヨーロッパ列強の影響が強く
    なりました。1645年に、オランダの保護国となり、
    1796年頃からは、イギリスの保護下に入ったそうです。
    しかし 諸島がそれぞれ離れており、植民地の統治下に
    は入らなかったそうです。

    1860年代に入ると、インドのボンベイからの商人が、
    マレに店を開設し、外国貿易を独占するようになり
    ました。スルタンのモハメッド・ムエーヌディン2世
    は、ボンベイの商人による経済支配に対抗するために、
    1867年、イギリスがモルジブの独立を保証するという
    条約に調印し、さらに、1887年、イギリスが島を防衛
    するという条件で、イギリスの保護国となりました。

    スルタンの地位は1932年に、島の最初の憲法によって
    世襲制から、選挙で選ばれるようになっていました。
    1953年、スルタンの地位は廃止され、アミン・ディディ
    を大統領とする共和制が宣言されました。しかし、
    一年も経たない内に、ディディの政権は打ち倒され、
    スルタンの地位が回復し、モハメッド・ファリド・
    ディディが第94代のスルタンとなったそうです。

    その頃イギリスは、軍の飛行場をアッドゥ環礁にある
    ガン島という島につくる許可をモルジブから獲得して
    1956年から、イギリス空軍が、数百人のモルジブ人を
    雇い、ガン島の居住者とする計画を進めていました。

    しかし、1957年に、イブラヒム・ナシールが首相に選ば
    れると、ガン島の貸与期間の短縮や、リース料の増額を
    要求し、協定の見直しを求め始めました。

    イギリス軍に雇われていた地元の雇用者は、イギリス軍
    が去ることを要求するナシール首相の政策に反対し、
    政府に対して暴動を起こしたそうです。

    さらに1959年、南部において、アドゥアン人民共和国
    (後にスバディバ連合共和国に改称)が独立を宣言し
    モルジブの中央政府から関係を絶つことになりました。

    これらの動きに対して、1962年に、ナシール首相は、
    南の環礁に砲艦を送り、反乱を鎮圧さしました。
    イギリスは、島の主権を認め、1965年モルディブは、
    イギリスから独立し、国際連合にも加盟しました。

    1968年には、国民投票によりスルタン制は再び廃止され、
    共和制に移行し、ナシールが大統領に就任しました。
    しかし、ナシールの独裁的な政治に対して不満が高まり
    ナシールは10年後に、シンガポールに亡命しました。

    1978年、亡命したナシール、初代大統領に代わって、
    マウムーン・アブドル・ガユームが第2代大統領に就任
    しました。ガユーム大統領は、教育、保健、産業
    (特に観光)を大きく発展させたそうです。

    しかし、ガユーム大統領の長期政権が続く中、政府と
    国内の実業家との間で、利害関係に衝突が生じ始めま
    した。1988年には、国内の実業家が、400人以上の
    スリランカのタミル人傭兵(PLOTE:タミル・イーラム
    民族解放組織。スリランカの北部と東部に拠点を持つ、
    タミル族の独立国家を熱望する過激派組織のひとつ)
    を使い、政府に対してクーデターを起こしました。

    その当時、モルジブは軍を保有していなかったため、
    ガユーム大統領の要請により、インド軍部隊が投入され
    傭兵部隊は鎮圧されたそうです。

    2003年、ガユーム大統領は、6選をはたしました。

    初当選から25年の間に、生活を伝統的な方法に戻そうと
    するイスラム教原理主義者、リゾート開発の利権面での
    大統領親族に対する優遇、不公正な裁判など、人権侵害
    が国の内外で指摘されるようになってきました。

    2003年8月、刑務所で受刑者が死亡したのをきっかけに
    首都のマレで暴動が発生し、2004年8月には、同じく
    マレで、政治犯の釈放と大統領の辞任を求める、数千人
    規模の反政府デモがおこなわれ、非常事態宣言が発せら
    れるという事件もおきているそうです。

    2004年12月26日に、インドネシア発生した、スマトラ島
    沖地震では、他のインド洋沿岸諸国と共に大きな津波に
    おそわれ、100人余りの死者や行方不明者が出たそうです。

    約200の島のうち、被害の大きかった14の島では、島民
    すべてが他島に避難する事態となり、国の経済を支える、
    リゾート施設の被害も甚大だったそうです。

    2005年に行われた議会選挙では、42議席の内、反政府系
    議員が1議席から18議席に躍進しました。

    2007年、首都マレで、爆弾テロと見られる爆発があり、
    日本人2人を含む、外国人観光客12人が負傷しました。

    2008年1月8日には、北部のホアラフシ島で、大統領暗殺
    未遂事件がおこり、15歳のボーイスカウトの少年が男を
    制止しましたが、少年は腕を負傷するという事件も発生
    しました。

    今後も、政治的には不安定な状態が続くようです。