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    <北朝鮮の歴史>

    朝鮮半島は、何度も様々な国が分裂、統一を繰り返して
    きました。特に、中国大陸と接する、朝鮮半島北部は漢、
    元など半島外の勢力による支配を受け、高句麗のように
    半島北部から満州にまたがる勢力をもった国家が存在し
    たこともあって、その歴史は複雑です。

    まず初めに、檀君神話というものから書き始めます。

    帝釈天をご存知でしょうか。仏教の二大護法神です。
    「朝鮮古記」によれば、桓因(桓因は帝釈天の別名)
    の庶子(妾の子)である桓雄が、人間界に興味を持ちま
    した。桓雄は太伯山(妙香山)の頂きの神檀樹の下に
    風伯、雨師、雲師らの、3000人の部下とともに降り、
    人間の地を360年余り治めたそうです。

    その時に、ある一つの穴に共に棲んでいた一頭の虎と熊
    が人間になりたいと訴えたので、桓雄は、ヨモギ一握り
    とニンニク20個をあたえ、これを食べて100日の間、太陽
    の光を見なければ人間になれるだろうと言いました。

    虎は途中で投げ出し人間になれなませんでしたが、熊は
    21日目に女の姿「熊女」になりました。しかし、配偶者と
    なる夫が見つからないので、再び桓雄に頼み、桓雄は人の
    姿に身を変えてこれと結婚し、子を産んだそうです。

    これが檀君です。檀君は平壌城に都をつくり、朝鮮と称
    しました。これが、檀君朝鮮という神話です。考古学的
    根拠には疑問が残されていますが。檀君朝鮮の後に続く、
    箕子朝鮮 、衛氏朝鮮は、古朝鮮時代と呼ばれています。

    その後、衛氏朝鮮は漢の武帝によって滅ぼされ、原三国
    時代(BC108〜4世紀中頃)を迎えます。この時代には、
    楽浪郡、馬韓、辰韓 弁韓の4つの国がありました。

    その後に、三国時代(4世紀中頃〜7世紀)が始まります。
    高句麗や百済、新羅など、日本の歴史とも関わる国々が
    栄えました。

    そして668年には、新羅が唐と連合し、百済と高句麗を
    相次いで滅ぼし、朝鮮半島で初めての統一政権を樹立し
    ました。なお、高句麗の滅亡後、遺民は、渤海国を建国
    しました。しかし、新羅では、その後、王都内での反乱
    が頻発するようになり、各地で地方の豪族達も力をつけ
    るようになっていきます。

    後三国時代(9世紀〜10世紀)には、新羅と後高句麗、
    そして、後百済の三国が勢力を持っていました。

    とうとう、918年に、後高句麗の王建が、新羅を滅ぼして
    高麗を建国しました。さらに936年には、後百済を滅ぼし
    朝鮮半島統一しました。その後は、高麗が栄えることに
    なりました。

    1232年になると、中国大陸より、元(モンゴル帝国)の
    侵略が始まりました。 1259年、高麗は、元に屈して属国
    となりました。 元によるの二度(1274年と1281年)の日本
    への侵攻(いわゆる元寇)に協力して出兵し、甚大な被害
    をこうむったそうです。 1354年には、反元運動が始まり、
    ついに、1356年、元は高麗から撤退しました。

    1392年、李成桂が高麗の恭譲王から王位を奪い、高麗王に
    即位します。ついで、1393年、明国より「権知朝鮮国事」
    として認められ、国号も朝鮮となりました。この王朝は、
    李氏朝鮮と呼ばれ、朝鮮半島の最後の王朝となりました。
    (1392年〜1910年 李朝とも呼ばれます(李王朝の意))
    
    この、李氏朝鮮が統治していた時代を「朝鮮時代」、李氏
    朝鮮の王室を「朝鮮王朝」と、韓国では呼ぶそうです。

    正式に初めて朝鮮国王となったのは、太宗でしたが、次代
    の世宗(世宗大王)の時代が、李氏朝鮮の中で政権が最も
    安定していた時代と言われます。世宗は、政治制度を王の
    一極集中型から、議政府を中心にした官僚主導の政治へと
    切り替え、また、現在のハングル文字の作成を始めました。

    1404年には、室町幕府と国交回復、日朝貿易盛んとなりま
    した。しかし、1592年〜1598年には、豊臣秀吉の2度の朝鮮
    侵攻(文禄・慶長の役)で全国土が戦乱の被害を受けます。

    この、朝鮮王朝時代には、朝鮮の地域が、ほぼ今の範囲に
    確定し、また住民の均質化も進んで、現在では朝鮮民族とし
    てほぼ均質化された人々が、朝鮮全土に広がって居住する
    ようになっていきます。

    1876年には、明治新政府と日朝修好条規が結ばれました。
    そして、1897年には、日清戦争における清の敗北を受けて
    締結された下関条約により、朝鮮は清の支配から離脱し、
    朝鮮国から「大韓帝国」と国号を改めます。しかしこの後、
    韓国は日本の強い影響下におかれることとなりました。

    1905年には、桂・タフト協定が結ばれます。この協定により
    韓国には日本が、フィリピンにはアメリカ合衆国が影響力を
    持つと、相互に認め合うことになります。

    1909年、韓国統監府の、初代統監であった伊藤博文が、ハル
    ビン駅にて暗殺されます。間島協約により、朝鮮と清の国
    境が定まりました。そして、 1910年には、日韓併合条約が
    結ばれ、大韓帝国は大日本帝国に併合され、京城に朝鮮総
    督府が設置されることになりました。

    こうした中、1920年には、満州東部の間島で、朝鮮人による、
    抗日武装闘争が激化していきます。 1945年8月15日、第二次
    世界大戦で日本は敗北し、朝鮮半島での日本の植民地支配は
    終了しました。

    日本の支配は終わりましたが、その直後から、北緯38度線
    以南をアメリカに、38度線以北をソ連に占領され、それぞれ
    の軍政支配を受けることになりました。その後、米ソ両国は
    朝鮮の統治を巡って決裂し、それぞれの支配地域で、政府を
    樹立する準備を開始しました。

    その結果、1948年8月15日に、アメリカ軍政地域単独で大韓
    民国が樹立され、これに対し、同年9月9日に、朝鮮民主主義
    人民共和国が成立したことで、朝鮮は分裂しました。

    その後、南北朝鮮の両国は、互いに「朝鮮の正統な政府」で
    あると主張して対立を深めました。そして、ついに、1950年
    の朝鮮戦争に至りました。朝鮮全土を破壊した戦争は1953年
    に休戦を迎えましたが、軍事境界線が制定されたことで朝鮮
    の分断が確定化されました。朝鮮は現在も停戦状態のまま、
    南北に分断されており、分断が固定された状態は50年以上続
    いています。

    朝鮮戦争後、北朝鮮は、他の社会主義国家から支援を受けなが
    ら経済を発展させ、1970年代までは大韓民国に対し国力で優位
    性を保っていました。しかし、その後は経済政策の失敗から、
    経済事情が悪化し、特にソ連崩壊がきっかけになって(直接的
    にはソ連からの重油の供給ストップが打撃となって)1990年代
    半ばにかけて、国の経済は衰退していきました。

    それと同時に、国内各地では食糧不足が深刻化しました。
    各国の支援にもかかわらず、食料配給制度の崩壊から、内陸の
    農村部を中心に何百万もの人々が餓死する事態となりました。
    それに伴い、多くの人々が食料を求めて中国へと密入国し、
    脱北者問題が国際的に注目されました。しかし、1999年以降は、
    中韓両国の経済協力などにより、GDPは回復しつつあるそうです。
    しかし依然、全体的に見て、経済状況は、未だ1970年代の水準
    にあり、停滞したままでした。

    政治では、金日成が、建国当初から1994年の死去まで、最高
    指導者の位置を占めました。金日成の死後、彼の実子である
    金正日が、1997年に、朝鮮労働党総書記に就任しました。
    そして1998年には、憲法改正で国家主席制を廃止すると共に、
    最高人民会議で国防委員長に再任され、事実上、最高指導者
    の座に着きました。その後、北朝鮮政府は、国際関係の改善に
    向けて、色々な取り組みを行ないました。

    その結果、1999年以降、相次いで国交を樹立しました。また
    2000年には、韓国の金大中大統領と、初めての南北首脳会談が
    実施され、6.15南北共同宣言が発表されました。2002年には、
    小泉純一郎首相が平壌を訪問、日朝平壌宣言が採択されます。

    その後、日本人拉致の事実を認めて、拉致被害者5名を日本に
    帰国させることになりました。しかし、2005年には、核兵器の
    製造と保有を公式に認め、 2006年には、核実験の成功を宣言
    しています。

    このように、核兵器の開発計画を巡って、アメリカとの間では
    緊張状態が継続しています。また、日本との国交締結交渉は、
    日本人拉致問題や植民地支配の賠償などで意見が対立しており、
    アメリカと日本の間で国交締結には至っていません。