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    <オマーンの歴史>

    オマーンは、古くからの地名で、その名の由来には、
    いくつか説があり、古いアラビア語で、「滞在地」と
    いう意味であったとか、人名が地名化したという説も
    あるそうです。

    オマーンには、紀元前2世紀頃からアラブ人が定住した
    そうです。そして、7世紀頃から、イスラムの勢力下に
    なったそうです。

    16世紀に入ると、ポルトガル人が渡来するようになり。
    1507年には、ポルトガルがオマーンを占領しました。
    ポルトガルの支配は一世紀以上も続くことになります。

    1650年になると、イマーム・スルタン・ブン・サイフが
    ポルトガル軍に勝ち、オマーンは独立します。オマーンは
    アラブ世界では、もっとも早く独立を遂げた国であると
    されます。

    1741年に、現王家のブーサイド朝の支配が始まります。
    1749年には、現王家の始祖であるアフマド・ブン・サウド
    が、イマーム(イスラーム教徒を指導する統率者のこと)
    に選ばれました。

    海洋貿易はますます増えていきました。そのため、1786年、
    首都を内陸部からマスカットへ公式に移しました。
    ブーサイド家が、スルタン(イスラム世界における君主号)
    の称号を採用したのもこの頃だそうです。

    オマーンはマスカットを中心に、勢力を広げました。
    特にオマーンの商人は、東アフリカ沿岸周辺(ケニアの
    モンバサや、タンザニアのザンジバル)に植民地を建設
    し始め、これによりオマーンの経済力は、他のアラブの
    首長が太刀打ちできないほど強くなったそうです。

    オマーンの絶頂は19世紀で、サイード・ブン・スルタンの
    もとで、パキスタンやインドの一部をも支配したそうです。

    しかし、その後は、ヨーロッパ列強が東洋進出への拠点
    として利用することとなりました。イギリスとフランスの
    争奪戦が起こり、1891年に、イギリスがオマーンと同盟
    条約を結び、事実上、イギリスの保護国となりました。

    サイード・ブン・スルタンが死んだとき、帝国は二人の
    息子に分割されました。1人はザンジバルの首長となり、
    もう1人(ファイサル・ビン・トゥルキ首長)は、沿岸部
    の都市マスカットと、オマーン内陸部のスルタンとして
    知られるようになりました。

    沿岸都市のマスカットでは首長の権威は絶対的でしたが、
    内陸部では、しばしばイマームと権威を分けました。
    イマームの権力は、初めは宗教的なものに限られていた
    そうですが、次第に、内陸部の政治を代表するようになり、
    首長の命令は、内陸部奥部には伝わりにくくなりました。

    このイマームとの対立に加えて、イギリスが首長に、奴隷
    と武器の売買を止めるように圧力をかけたことにより、
    経済はさらに悪化し、イギリスの影響力が増えました。

    首長が1913年に死んだ時、国内の各部族は息子のサイード・
    ビン・タイムールをイマームと認めることを拒絶しました。

    1915年でも、まだ首長の支配力は薄く、内陸部のイマームと
    緊張は高かったそうで、いくつかの部族がマスカットを占領
    しようとしたそうです。そして、1920年この状況の解決の
    ため、スルタンとイマームは条約に調印し、スルタンは、
    イマームを宗教上の指導者と認め、国内の支配権を一部許す
    ことになりました。

    1938年、新しい首長にタイムール・ビン・ファイサルが就任
    しました。タイムールは、権力を内陸部に及ぼそうとしまし
    たが、石油があると信じていたイギリスに妨げられました。

    1954年、タイムールは、サウジアラビアとの領土争いで、
    イマームはサウジ寄りだと結論して内陸部へ侵攻し、1955年
    に制圧しました。アラブ連盟の参加国は、イマームに同情的
    ではあったそうですが誰も助けず、またイギリスも、内陸部の
    石油利権と引き換えに、タイムール側についたため、
    タイムールは内陸部のすべてを併合しました。

    タイムールは、社会の変化を嫌い、鎖国政策をとりました。
    どうにかして出国した人も、帰国は許されなかったそう
    です。オマーン国内の安定を、重点課題としたようです。

    タイムールは、外部の世界と、ほとんど交渉を持ちません
    でしたが、イギリス人顧問と、幾人かのマスカットの貿易
    商一族とは数少ない接触を保ったそうです。そして、進歩的
    または西洋的(メガネ、ラジオ、本など)なものは輸入しない
    ということを前提に、いくつかの商品の輸入に対して、利益の
    上がる独占権を与えたそうです。

    1958年に、タイムールはサラーという土地にある宮殿に移り
    住むようになり、その後、ほとんどそこから出なかったそう
    です。

    1965年になると、南部のドファール地方で反乱が起こり、
    10年間に亘る、内戦が始まったそうです。

    1967年に、石油輸出を開始します。 1970年には、皇太子の
    カブース・ビン・サイードがクーデターを起こし、父王の
    サイード・ビン・タイムールを追放し、国王に即位しました。
    そして、国名をマスカット・オマーンから現国名のオマーン
    に改めたそうです。タイムールは余生を亡命先のロンドンの
    ホテルで過ごしたそうです。

    カブース・ビン・サイードは、権力についたとき、まだ30歳
    でした。教育を海外で受けましたが、帰国してから約6年間は、
    サラーに自宅軟禁されていました。

    権力を獲得した彼は、ただちに彼の父の圧政的な社会の制限を
    廃止し、オマーンの半封建的な経済を現代化し始めました。
    こうして、オマーンは、他の湾岸諸国より、急激に近代化を図
    っていきました。

    1971年に、オマーンは、イギリス保護領より独立し、国際連合
    に加盟します。さらに、2000年に世界貿易機関に加盟しました。