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    <パキスタンの歴史>

    紀元2500年頃には、インダス川の広大な流域にインダス文明が栄え
    ていました。紀元前1500年頃、中央アジアの草原地帯から移動した
    アーリア人がインド亜大陸に侵入し、インダス文明を築いた先住民
    を征服します。アーリア人は、紀元前9世紀までにはパキスタン、
    インドの北部にも広がりました。

    紀元前6世紀頃より、アケメネス朝ペルシャが、インダス河流域を
    支配していました。ところが、紀元前327年、新興国マケドニアの
    アレキサンダー大王が、強大なペルシャ帝国を打ち破り、ヒンズー
    クシ山脈を越え、インダス川付近まで勢力を伸ばしました。

    その後、インダス川周辺には、シルクロードの全盛期がやって来ま
    した。中国、インド、ローマ帝国間の貿易が行われ、ガンダーラ
    地方(現在のペシャワール周辺)にはクシャン朝が栄えました。
    クシャン朝は仏教国であり、カニシカ王の下で栄えました。
    そして、数千の僧院が建てられました。ガンダーラ地方は貿易や
    学問、仏教徒の聖地となりガンダーラ美術も花開きます。

    しかし、クシャン朝は4世紀までに分裂してしてまいます。
    その後、ササン朝ペルシャ、グプタ王朝、中央アジアのエフタル
    そして、突厥(とっき:トルコ系遊牧騎馬民族)がインダス河を
    流域を支配しました。10世紀に入ると、トルコ系のガズニ朝
    (現、アフガニスタンが拠点)がインダス河流域を支配しました。

    16、17世紀に入ると、強大なムガール帝国が支配します。
    ムガール帝国とは「モンゴル人の帝国」という意味の国名です。
    詳しくは、本メルマガの、Vol.6 インドを参考にして下さい。

    18世紀に入ると、インドで次第に勢力を伸ばしていたイギリスと
    ムガール帝国は衝突することになります。シーク教徒で藩主の
    ランジット・シンは、イギリスと互いに領土不可侵の協定を結ん
    でいました。しかし1839年の彼の死後、イギリスとシーク教徒は
    衝突します。この二度にわたるシーク戦争でムガール帝国は衰退
    します。その結果、1858年、ムガール帝国は滅亡し、イギリスの
    直接統治が始まりました。

    19世紀後半、イギリス領インドで、国民の民族意識が高まり、
    イスラム教国家の独立を要求する、ムスリム連盟が設立されます。
    この頃、イギリスのイスラム教徒の亡命者が、パキスタンという
    名前を作ったそうです。「Land of the Pure」という意味だとか。

    インドのヒンズー教徒とパキスタンのイスラム教徒の間の摩擦は、
    次第にエスカレートします。統治国のイギリスは、パキスタンと、
    インドを分離させることを認めました。1956年、パキスタンは、
    イスラム教の国家として独立します。

    その後、インドとパキスタンはカシミール地方の利権をめぐり、
    軍事は衝突をします。(1948年、第1次印パ戦争)その後も、両国
    で戦闘が起こりました。(1965年、第2次印パ戦争 1971年、第3次
    印パ戦争)そして、パキスタンの東は、バングラディシュとして
    独立しました。

    1988年、総選挙が行われ、パキスタン人民党が第一党となります。
    大統領にはイスハク・カーン、首相には、ブット元首相の娘
    ベナジルがイスラム国家で最初の女性として就任しました。
    しかし、政局は混乱し、1993年、大統領、首相ともに辞任します。
    1993年、二度目の総選挙が行われ、再びパキスタン人民党が勝利し、
    ベジナル・ブットが首相へ復帰しました。

    現在は、パキスタン南部アラビア海沿岸にある、パキスタンで最大
    の都市、カラチでは、モハジール民族運動(MQM)の武装勢力による
    テロ、暴力行為が頻発するようになりました。モハジールとは、
    インドから、パキスタンに流入してきたイスラム教徒のことです。
    また、隣国のアフガニスタンからの難民も増え、カラチの治安悪化
    は、パキスタン経済へ大きな影響を与えているそうです。

    2007年12月27日、ベジナル・ブット首相は、首都イスラマバード近郊
    ラワルピンディで、総選挙に向け帰国した集会会場付近で、自爆テロ
    により暗殺されました。イスラム過激派によるものと言われています。