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    <カタールの歴史>

    カタール周辺の地域で、石器時代の最初の住民と
    して知られるのは、カナン人(箱舟伝説ノアの孫、
    カナンから生じた国民)だそうです。
    紀元前3000年〜紀元前2000年頃の遺物が見つかって
    いるそうです。 

    紀元前2335年〜紀元前2279年には、アッカドの
    サルゴン王をはじめ、さまざまな支配者に統治され
    ていました。

    また、紀元前の1000年間は、ペルシャ湾にあった
    ディルムンという、紀元前3000年紀頃からアラビア
    半島東部に栄えた古代文明(中心は現在のバーレーン)
    に属してもいたそうです。

    7世紀にイスラムがアラビア半島に広がると、カタール
    はその一部となり、カリフ時代のアラブの支配下におか
    れたそうです。

    そして、アッバース朝などイラン人の長い支配が続き
    ました。また、18世紀末には、現在サウジアラビアを
    支配している、ワッハーブ派の影響も受けたそうです。

    1868年までは、バーレーンのハリーファ家がカタール
    の北部を治めていました。バーレーンの支配の後は、
    現在のカタールの首長の王族である、サーニー家の
    創始者、ムハンマド・ビン・サーニーが首長(シェイク
    または、シャイフ)になりました。しかし、その後は、
    オスマン帝国がカタールを占領したそうです。

    19世紀から20世紀初頭には、カタールは他の沿岸諸国
    と同じく、貧しい時代が続いていたそうです。

    第一次世界大戦(1914〜1918年)の後、敗戦国となった
    オスマン帝国は撤退し、戦勝国側であったイギリスが
    カタールを実質的に支配することとなりました。
    イギリスは、アブドゥッラー・ビン・カースィム・
    アル・サーニーをシェイクとして自治を認めました。

    1916年に結ばれた、イギリスとカタール間の条約では、
    イギリスとその他のペルシャ湾諸国の条約と同じく、
    カタールは、イギリスの承認なく自国領の変更は認め
    られず、諸外国との外交関係も一切認められないという
    ものだったそうです。

    その代わりに、イギリスは海上からの侵攻に対しては
    保護を与え、陸上からの攻撃に対しては支援を与える
    という内容だったそうです。1934年の条約も、さらに
    イギリスからのカタールの保護を強化したものだった
    そうです。

    この当時、カタールの生活は、1930年頃の真珠市場の
    崩壊以前で特に厳しかったそうです。飢えや栄養失調、
    病気が広がっており、首長は、1930年代初期にやって
    きた石油の採掘者を歓迎しました。

    1935年には、英蘭仏米の共同国益会社「カタール石油
    会社(Qatar Petroleum Company)」に対し、カタール
    での75年間の石油掘削権を承認しました。1940年には
    高品質の石油が、カタール半島西岸で発見されます。

    しかし、第二次世界大戦により、生産が始まったのは
    10年後のことでした。1949年から石油の輸出が始まり
    ました。最初の歳入の大部分は学校、病院、道路など
    生活の基礎を確立するのに使われたそうです。

    1950年代から1960年代にかけて、石油がカタールに
    繁栄と社会進化をもたらし、近代化の始まりとなった
    そうです。

    この時の、首長はハリファ・アリ・アル・サーニー
    でしたが、アリ首長は、毎日の政府の職務にほとんど
    興味を持たなかったそうです。その結果、1950年代半
    ばまでは、甥のハリファが国を運営していたそうです。

    1960年の初めにアリ首長は退位し、息子のアフマドに
    首長を譲りました。しかし、新しい首長もまた父と同
    じく、政務に興味を持たなかったそうです。アフマド
    の即位のとき、ハリファは副首長および首相となり、
    国政の実務を始めました。

    1971年には近隣国のアラブ首長国連邦とバーレーンが、
    アラブ首長連合を計画しましたが、カタールは離脱し、
    9月に独立を宣言し、また国際連合に加盟しました。

    その6カ月後の1972年、ハリファは宮廷革命を起こし
    ます。アフマドの追放は支配一族の幅広い承認を得た
    そうで、ハリファは、カタールの実権を握り、以来
    国内的にはほぼ、政治的安定を保っているそうです。

    ハリファは政権を握ると、鉄鋼や肥料など新しい産業を
    導入し、国の近代化につとめました。そして、外交は
    サウジアラビアと共同し、イスラエルと対立するアラブ
    側に立ったそうです。しかし、湾岸の他の国と同じく、
    地域の動乱に影響されてきました。

    例えば、1979年のイランでのイスラム革命により、
    シーア派原理主義者たちの反政府運動が近年起こり、
    また、バーレーンとの領土問題もあるようです。

    1988年には、ソビエト連邦と中華人民共和国とそれぞれ
    外交関係を結びました。OPEC(石油輸出国機構)の初期
    からの会員国で、湾岸協力会議の原加盟国だそうです。

    1990年の湾岸戦争では、反イラクの立場を取り、1991年
    の湾岸戦争では、カタール軍は多国籍軍に参加、陸空で
    貢献し、とくにサウジアラビアとクウェートの中立地帯
    にある、石油基地の町、カフジ奪回に貢献したそうです。

    1995年6月、ハリファ首長がヨーロッパ外遊中に、長男の
    ハマド皇太子による無血クーデターが起りハマドが首長
    に就任しました。

    ハリファ前首長が湾岸諸国を訪問して復権活動を行う中、
    ハマド新首長は1996年、首長職と首相職を分離しました。
    首相に実弟を任命し、体制固めをしたそうです。