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    <ロシアの歴史>

    ロシアとウクライナ、ベラルーシ周辺は、東スラブ族で
    あるルーシ族(ヴァイキング)の土地であったそうです。
    ルーシと呼ばれたこの地域の中心は、現在のウクライナ
    の首都であるキエフであり、現在のモスクワ周辺の地は
    辺境で、当時、まだ歴史に登場していなかったそうです。

    862年に、ルーシ族の首長であったリューリックが、
    この地域に、ノブゴロド公国を興した時から、ロシアの
    歴史が始まります。南にはキエフ公国が建国されて、
    東ローマ帝国から伝わった、ギリシア正教を国教とした、
    専制君主制、農奴制の国になりました。

    これらの公国は、独特の文化を持って発展しましたが、
    13世紀初頭になると、モンゴルによって征服され、
    キプチャク・ハン国に支配されるようになりました。

    この時代はロシア人にとっては屈辱的な時期で「タタール
    (モンゴル人)のくびき(車を引く牛馬の頸の後ろに
     かける横木)」と呼ばれているそうです。

    しかし、その後、ルーシ諸公の一人であったモスクワ公が、
    モンゴルの支配下で、諸公がモンゴルに納める貢納を取り
    まとめる役を請け負って、次第に実力をつけ、15世紀には、
    キプチャク・ハン国の支配を脱して、ルーシを統一して、
    商業地として栄えるようになりました。

    モスクワ大公はイヴァン3世のときツァーリ(皇帝)という
    称号を名乗り、1480年、モンゴルから独立しました。
    さらに、イヴァン4世(雷帝)権力を強め、シベリアを
    領有し、東方へ進出しました。

    しかし、イヴァン4世の死後、大貴族の抗争で国内は
    大混乱に陥り、ポーランドによるモスクワ占領まで起こり
    ました。この混乱を静めたロマノフが、1613年にロマノフ
    王朝を築きました。

    ロマノフ王朝は、大貴族と農奴制に支えられ、封建色の
    強い帝国が発展しました。18世紀には、ピョートル1世
    (大帝)が急速に西欧化・近代化政策を強行し、大北方
    戦争(1700〜1721年)で、スウェーデンに勝利し、首都
    サンクトペテルブルクを建設して、ロシア帝国の基盤を
    築きました。

    18世紀後半には、エカテリナ2世が夫のピョートル3世
    を殺害して即位し、その後、オスマン帝国との露土戦争
    (1768〜1774年、1787〜1792年)に勝利すると共に、
    ポーランド分割に参加し、ロシアは領土を広げました。

    19世紀になるとロシアはナポレオン戦争に参戦し、
    1812年にはナポレオンが指揮するフランス軍に侵攻され
    ましたが、何とか撃退し、その後、大国となりました。
    19世紀後半からは、不凍港獲得を悲願として南下政策を
    推し進めましたが、トルコ等の周辺国と戦争が起こり、
    イギリスとの対立も激しくなっていきました。

    クリミア戦争ではイギリス・フランス連合軍に敗北し、
    その結果を踏まえて、国内の工業化や農村改革などが
    積極的に進められるようになりました。

    19世紀末には、ドイツ・オーストリアとの三帝同盟から
    フランスとの同盟に傾き、バルカン半島や極東での南下
    政策を進めました。

    また、この頃、極東ではアロー戦争(清との戦争)の
    仲介料として、清からウラジオストクを獲得し、街を
    建設しました。また、フランス資本の参加により、
    シベリア鉄道の建設も行われました。

    1861年には、農奴開放令が出て多くの農奴は労働者と
    なりました。フランス資本が導入された、都市部では
    資本主義が発達しましたが、その結果、劣悪な労働条件
    から、労働者の間でマルクス主義運動が起こりました。

    1905年に日露戦争で敗れると、ロシアはイギリスや
    日本と三国協商を結び、ドイツやオーストリアと対立
    するようになりました。第一次世界大戦では連合国の
    一員としてドイツ・オーストリアと開戦しましたが、
    敗北を重ねました。

    帝国の弱体化は急速に進行し、都市部の労働者を中心に
    社会主義運動が高揚し、その結果、第一次世界大戦中の
    1917年には、首都サンクトペテルブルクで大暴動が
    起こりました。ニコライ2世は捕らえられて、ロマノフ
    王朝は破壊しました。(3月革命〜ロシア革命まで)

    同年、ウラジーミル・レーニン率いるボリシェビキは
    「すべての権力をソヴィエトに」をモットーにして、
    臨時政府を倒し、ロシア社会主義ソヴィエト共和国を
    成立させ、ボリシェビキの一党独裁政治が始まりました。

    ソ連は、旧ロシア帝国領の大部分を引き継ぎ、首都も
    レニングラードと改称されたサンクトペテルブルクから
    モスクワへと約200年ぶりに戻されました。

    1930年代には、世界恐慌によって、多くの資本主義国が
    不況に苦しむ中、ソ連は影響を受けずに、高い経済
    成長を達成しました。しかし、その経済成長は、強制
    労働による事実上の奴隷制度に支えられたものであり、
    富は、共産党の上層部に集中して配分されたそうです。

    ソ連は、第二次世界大戦では一時ドイツと同盟を結び、
    東欧に侵攻してポーランドを占領、フィンランドにも、
    圧迫を加えましたが、やがて同盟を破ったヒトラーに
    攻め込まれて西部の広大な地域をドイツに占領されて、
    大きな被害を受けたそうです。

    しかし最終的にはドイツに勝利し、バルト三国や、
    ポーランド東半、ドイツ、ルーマニア、フィンランド、
    チェコスロバキアの一部などを併合して、西に大きく
    領土を広げました。

    アジア地域では、終戦直前(1945年)に日本との不可
    侵条約を一方的に破棄して参戦し、満州やサハリン南部、
    千島、朝鮮北部に侵攻して占領したそうです。

    戦後は、これらの新しい領土内に住む非ロシア系の住民
    を追放して、ロシア人を入植させました。

    1946年には、東プロイセン(旧ドイツ領)の北部を、
    カリーニングラード州、日本に侵攻して占領した、
    サハリン島南部(南樺太)とクリル列島(千島列島、
    歯舞群島・色丹島を含む)全域をサハリン州として
    編入しました。日本政府は千島列島南部の、北方領土
    ついて、返還を要求しているそうです。

    1954年には黒海沿岸のクリミア半島(クリミア州)を
    ウクライナに割譲し、現在のロシア連邦にあたる領域
    になったそうです。
    
    レーニンの死後、スターリンの独裁政治が始まります。
    スターリンの死後は、米ソ関係は「冷戦時代」と呼ば
    れる状況となっていきました。

    ソ連は、強大な軍事力を背景に、東ドイツ、ポーランド、
    チェコスロバキア、ハンガリー、ルーマニア、そして、
    ブルガリアなどの東欧諸国を衛星国として勢力を広げ、
    一党独裁、全体主義体制で、世界の二大超大国の一つ
    としてアメリカと対立し、競争しました。

    しかし、計画経済の破綻等から次第に共産主義の矛盾が
    目立つようになりました。1985年に、ソ連の指導者と
    なったミハイル・ゴルバチョフは冷戦を終結させる一方、
    ペレストロイカ(民主化、経済開放)、グラスノスチ
    (情報公開)を掲げて、ソ連を延命させるための改革に
    取り組みましたが、かえって各地で民族主義を噴出させ、
    共産党内の対立が激化しました。

    しかし、この政策は西欧諸国や米国に支持されました。
    1989年には、中国と和解するためにアフガニスタンから
    撤退し、またマルタ会談で米国との冷戦終結を宣言し、
    複数政党制、大統領制を導入し初代大統領となりました。

    党内の抗争に敗れた、改革派のボリス・エリツィンは、
    1990年に最高会議議長となっていました。1991年に、
    保守派のクーデターが起こりましたが、これを鎮圧した
    エリツィンが、国名をロシア共和国と改称して主権宣言
    を行い、大統領に就任して、共産党を解散しました。

    1991年、ロシアを中心に独立国家共同体(CIS)が出来た
    ことにより、ソ連は消滅しました。ロシアは独立国家
    共同体の加盟国の一つとなりましたが、旧ソ連が有して
    いた国際的な権利(国連の常任理事国など)や国際法上
    の関係を基本的に継承し、今も、大国としての影響力を
    保持し続けているそうです。

    しかしながら、依然問題は多く、チェチェンなどの深刻
    な民族問題や、保守派の巻き返しと隣り合わせの状態が
    続いています。

    また、その後、エリツィン大統領の後に大統領に就任
    したプーチンが、ベラルーシのロシアへの吸収合併を
    示する発言を繰り返すようになってから、ベラルーシ
    側との対立も深まってきているそうです。

    プーチン大統領は、就任当初は蜜月と言われた米国との
    関係は、イラク戦争・イラン核疑惑といった諸問題を扱う
    中で悪化しましたが、頻繁に話し合いが持たれています。

    ソ連崩壊後、影響力は落としましたが、豊富な資金力を
    背景に軍備の更新を進めていて、アメリカや、NATOとの
    緊張状態は高まりつつあるそうです。

    経済は、2000年度から好調が続いており、一人当たりの
    名目GDPは、2006年には、5倍強増加し、ブラジル・中国・
    インドと共に「BRICs」と呼ばれる新興経済国群の1つに
    挙げられています。