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    <サウジアラビアの歴史>

    イスラム教の始祖、ムハンマドは、メッカで生まれました。
    サウジアラビアは、メッカ、メディナという、イスラム教の
    二大聖地持つ、イスラム教の発祥地になります。

    18世紀初め、アラビア半島は、トルコ人のオスマン帝国に支配され
    ていました。そのため、アラブの世界では、オスマン帝国に対する
    反発が強まっていました。その中で、ムハンマド・ワッハーブによる、
    イスラム復古主義運動が起こります。この運動は、コーランの教え
    を堅く守り、教えからの逸脱は許さないという運動でした。

    彼は迫害され、サウド家のムハンマド・サウドが統治するディリヤ
    に保護されました。やがて、この二人の間に同盟関係が生まれ、後に
    サウジアラビアの基礎となります。ムハンマド・サウドは軍事や
    政治を、ムハンマド・ワッハーブは宗教面を担当しました。

    1800年代初期には、サウド一族はアラビア半島の大部分を支配して
    いました。これに対し、オスマン帝国は軍隊を送りました。
    オスマン帝国はディリヤを占領し、サウド家の統治は終わります。
    しかし、1824年に、サウド一族は、中央アラビアで政治権力を奪還
    し、ディリヤの近くの都市、リヤドから再び支配を開始しました。

    その後、1865年に、長きにわたる、部族間の戦争が始まりました。
    1891年、オスマン帝国に支援されたラシード家が勝利し、サウド家は
    亡命へ追いやられ、現在のクウェート近郊に亡命しました。

    1901年、アブドゥル・アジズ・サウドは、クウェートから領土回復
    を期して帰還しました。彼は、1902年、ラシード家からリヤドを
    奪回し、ついに、オスマン帝国の守備隊も、追い払いました。

    さらに、イギリスの保護下にあった、湾岸の部族を除き、西部地域の
    ヘジャズ王国を併合しました。1932年には、二つの王国は統一され、  
    サウジアラビア王国と名づけられた。国名は、サウジ家による、
    アラビア王国という意味です。憲法としてコーランが選定されました。

    1938年に、石油がサウジアラビアで発見されました。第二次世界大戦
    によって、一時、生産を中止せざるを得ませんでしたが、大戦後には
    石油による利益があがるようになっていきます。既に1960年までには、
    サウジ政府の収入の81%が、石油から来るほどでした。

    アブドゥル・アジズ・サウドの死後、息子のサウドが王位を後継しま
    すが浪費を始めます。これに対し、一族は、サウドの弟、ファイサル
    皇太子に行政権を譲らせました。ファイサルはただちに国家行政を
    近代化し、財政を立て直そうとしましたが、サウジ王家と意見が食い
    違ってきます。1960年、再びサウドは権力を取り戻し、ファイサルは
    首相を辞任しました。しかし、変わらず浪費をするサウドに対し、
    1964年に、一族は、再び、ファイサルに味方して、サウドを王位から
    退位させました。

    ファイサルは、国内の奴隷制度を廃止させ、近代化を進めました。
    また、1967年の中東戦争の間、サウジアラビアは他のアラブ産油国と
    ともにアメリカ、イギリスに対して石油の輸出をストップさせました。
    その結果、石油価格は4倍にもなり、石油による収入が増大しました。
    しかし、1975年、ファイサル国王は、甥によって殺害されました。

    その後、ファイサルの異母弟である、ハリドが王位を継ぎます。
    この頃、国土開発のため、多数の外国人がサウジアラビアに入って
    きました。それに伴い、王族の腐敗、汚職が生まれ、国民の不満は
    高まりました。メッカのグランド・モスクが急進派によって占拠され、
    ハリド国王は、鎮圧部隊を突入させる事件も起りました。

    ハリド国王の死後、異母弟であるファハドが国王となりました。
    1979年、イランのイスラム革命より、イランとの関係が悪化します。
    また、1990年のイラクによるクウェート侵攻は、サウジアラビアに、
    イラクからの攻撃に対する危機感も高まりました。そのようなこと
    から、サウジアラビアはアメリカに軍の派遣を要請し、最大時には、
    50万人以上の米軍が駐留しました。緊張の時代でした。

    1995年、ファハド国王は病で倒れ、アブドラ皇太子が政務を取ること
    となりました。しかし、1996年にファハド国王は健康を回復し、
    政務に復帰しました。

    サウジアラビアには、今も内閣はなく、憲法もありません。
    コーランが憲法に位置付けられています。その他、シャリーアと
    呼ばれる、イスラム法と、王の命令が法律となります。
 
    今も、厳重な報道管制がしかれてており、外国のマスコミによる、
    内政事情の取材などは、許されていないそうです。