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    <韓国の歴史>

    第二次世界大戦前の、韓国の歴史については、
    北朝鮮の歴史と同じですので、省略いたしました。

    第二次世界大戦で日本が連合軍に降伏後、韓国は、日本
    の統治を離れ、アメリカ軍政庁の統治に入りました。
    この行政機関は、1945年から始まり、1948年8月15日の
    大韓民国建国までの間、続きましたが、統治期間中、
    大韓民国の社会制度の基盤が、数多く建設されました。

    しかし、アメリカ軍政庁の統治期には、様々な、政治や
    経済上の混乱が続きました。その理由として、アメリカ
    軍は、統治を開始する際に、統治に必要な、南北朝鮮に
    関する知識や、その他の十分な準備が用意出来ておらず、
    朝鮮に到着したためと言われます。

    ソ連軍による統治下にあった北朝鮮からの、脱北者や、
    避難民も多数流入、しました。政策の多くは、意図に
    反して、不安定な要素も、もたらしました。

    次に第一共和国の時代に入ります(1948年〜1960年)
    この時代には、イ・スンマンが大統領職に留まり続けた
    結果、独裁政治体制が構築されました。四月革命による、
    イ・スンマンの大統領辞任で終わりました。


    1960年の四月革命から、第二共和国の時代に入ります。
    第一共和国期の独裁政権の反省から、議院内閣制が採用
    されるようになります。ユン・ボソンが大統領に就任し
    ましたが、政治的混乱の末、5・16軍事クーデターが発生
    することにより短命に終わりました。

    5・16軍事クーデターの主要メンバーは、韓国軍の陸軍
    士官学校の8期生で、パク・チョンヒが実権を握ってい
    ました。パク・チョンヒ少将が率いる韓国軍の一派は、
    1961年5月16日に軍を派遣してソウルを掌握しました。

    パクは、軍の政治化を求めていました。
    第二共和国の腐敗や、自由主義政策による社会運動の放任、
    第一共和国期の反民主的活動や不正活動に関わった、公職
    関係者の追放措置に対して、不満を抱いたことが、クーデ
    ターに至った理由とされています。

    クーデターの後は、国家再建最高会議(通称革命委員会)
    による軍事政権時代に入りました。

    革命委員会は、早期に政府を民政に復帰させることを公約
    としていていました。1962年の国民投票で、78%の賛成を
    受けたことを根拠に、大韓民国を、革命委員会から、再び
    大統領制による共和憲政体制へと戻すことを決定しました。

    そして同年、憲法改正を実施し、大統領に権力を集中させ
    る第三共和国憲法が制定されました。

    当初、パク・チョンヒら軍幹部は、次の選挙で公職を求め
    ないと誓約していました。しかし、結果的には、パクが
    1963年の大統領選挙に辛勝で当選したため、パクは、軍の
    要職を辞し、文民として大統領職につきました。そして
    同年、正式に、革命委員会は第三共和国へと移行しました。

    パク・チョンヒは、1969年の大統領選挙にも立候補し、
    51.4%の得票率で再選されました。しかし、当時の憲法で
    は、大統領職の三選は禁止されていました。そこで、パク
    は1969年の国会における憲法改正で、1971年の大統領選
    出馬を可能としました。1971年の大統領選では、野党の
    金大中と競い、辛勝して政体を第四共和国へと改めました。

    この第四共和国とは、第三共和国憲法にあった、大統領
    の多選禁止規定を撤廃し、大統領の選出方法を間接選挙制
    に改めるなど、パクの永久執権に都合が良いものでした。
    また、戦前の日本の大日本帝国憲法と同様に、国民の自由
    や権利には、「法律の範囲内で」と留保規定が設けられた
    ものでした。

    1979年に、パク・チョンヒは、腹心だった一人に、酒場で
    暗殺されてしまいます。

    事件の後、チェ・ギュハが大統領に就任していましたが、
    程なく、韓国軍戒厳司令部の全斗煥将軍が、クーデターで
    韓国軍を掌握し、実質的な権限を握りました。この間、
    独裁的なチェ・ギュハ政府の支配に対する、強硬な抗議の
    声が市民社会の間から現れ、主に大学生と労働組合による
    抗議活動が、大規模デモによって最高潮に達しました。

    そのため。全斗煥将軍は、1980年には戒厳令を布告して、
    民主化運動を取り締まり、金大中といった有力な政治家を
    拘束しました。更に5月18日に発生した光州事件では、学生
    らの抵抗に対し、軍事力を行使し、徹底的に弾圧しました。

    1980年8月16日に、軍部の圧力によって、チェ・ギュハが
    大統領を辞任すると、公式的な憲法手続きにより、全斗煥
    が第11代大統領に就任しました。そして、第五共和国憲法が
    採択されました。

    この第五共和国は、外交面で様々な出来事に遭遇しました。

    まず北朝鮮関係では、1983年にミャンマー(当時はビルマ)
    を公式訪問中の全斗煥は、北朝鮮の工作員によって暗殺され
    そうになりました。(ラングーン事件)一時は北朝鮮と緊張
    状態にありましたが、その後、関係は好転し、1985年には、
    朝鮮戦争以来初めてとなる、離散家族の相互訪問が実現され
    ました。しかし、1987年11月29日に、北朝鮮工作員の金賢姫
    らによる大韓航空機爆破事件が発生し、南北関係は、再び
    険悪化します。
 
    その一方で、1988年に、ソウルオリンピック開催にこぎつけ、
    1983年には、中曽根首相の訪韓を実現させ、経済開発5カ年
    計画への支援として、40億ドルに及ぶ経済協力を得ることに
    成功しました。1984年に、全斗煥が韓国大統領として初めて
    日本を公式訪問します。

    しかし、国民は、クーデターで政権を握った全斗煥を認める
    ことができず、政府に対し、大規模な抗争が次々と発生しま
    した。1985年頃からは、1980年に光州市で発生した、民主化
    を求める活動家や学生、市民を軍事力で虐殺的に鎮圧した
    真相が明るみになり、民主化を求める国民の批判を受けます。

    高まりつつある政治の民主化要求を受け、1987年、ノ・テウ
    が、16年ぶりに行われた選挙で大統領に当選しました。

    1987年10月29日に制定した、第六共和国憲法に基づく政治が
    始まり、この年以降の政体を、第六共和国と呼びます。
 
    ノ・テウ大統領は、全斗煥政権時代の不正容疑を、徹底追及
    しました。また、共産圏との関係改善に乗り出し、1990年
    にソビエト連邦、1992年に中華人民共和国と国交を樹立させ、
    1991年には、北朝鮮と同時に、国連加盟を実現させました。

    ノ・テウ大統領の後、1993年に金泳三が大統領に当選します。
    金泳三政権は、軍部政権の温床を、徹底して排除し、また、
    野党政治家や、政治運動家などを積極的に登用し、重要な
    ポストには、大学の教授を迎えました。高級官僚の不正の追求
    にも乗り出しました。しかし、1997年に、東南アジア各国を
    襲った経済危機(アジア通貨危機)において、韓国も経済状態
    が悪化します。IMF(国際通貨基金)の援助を要請する事態と
    なり、ノ・テウは、大統領を退任することになりました。

    次に大統領に就任したのは、金大中でした。韓国は、アジア
    通貨危機の直後であり、経済的な危機はつづいていましたが、
    金大中政権は、IMFの介入を全面的に受け入れた上で、経済改革
    に着手しました。IT産業の奨励、財閥間の事業の統廃合などで、
    経済建て直しを図り、危機を脱しました。

    韓国はIT先進国と呼ばれるようになり、また、サムスン電子や
    現代自動車の地位を高めました。急激な産業構造の転換による
    貧富の格差への配慮から、医療保険や年金など福祉政策の拡充
    にも重点を置きました。北朝鮮に対しては、太陽政策と称される
    寛大な政策を志向し、金大中は、2000年にノーベル平和賞を
    受賞しました。

    大統領になるまで、度々自宅に軟禁され、約10年に及び投獄され
    死刑判決まで受けた、民主化の闘士として、高い評価がある反面、
    現代グループが北朝鮮へ5億ドルを違法に送金するのを見逃すなど
    批判も出ています。退任後は政界を引退し、研究生活を送って
    いるそうです。

    金大中の後に大統領になったのが、ノ・ムヒョン大統領です。
    日本植民地統治時代を経験していない世代では、初めての大統領
    になります。ノ・ムヒョンは、国会議員になるために、何度も
    落選を経験しましたが、その勝てなくても立候補し続ける姿が
    一部の国民の共感を得て、サポーター組織「ノサモ」まで結成
    されたそうです。

    ノ・ムヒョンは、金大中による、北朝鮮への太陽政策の継承し
    ています。首都を、極度に人口が集中するソウルから移転する
    という改革は、憲法裁判所が、「ソウルは、朝鮮王朝以来の慣習
    的首都」として「違憲」と判断され、やむなく修正しました。

    ノ・ムヒョンの属していた、新千年民主党は、ノ・ムヒョンが
    大統領になった当時、国会では少数派で、ハンナラ党が過半数を
    占めていました。さらに、2003年に、母体であった新千年民主党
    から、ノ・ムヒョン支持派が離党し、ウリ党が結成されましたが、
    2007年8月20日に、大統合民主新党に吸収合併され、解党して
    しまいました。強力な後ろ盾がなく、苦戦を強いらました。

    また、ノ・ムヒョンは、反米独立派で知られていましたが、イラク
    に韓国軍を派遣したことから、支持率は急落しました。イラク戦争
    を支持し、派兵する事を決めた時、多くの韓国人は裏切られたと
    感じたようです。ノ・ムヒョンは、これはあくまでも平和維持任務
    であることや、北朝鮮の核危機を解決するにあたり、米国の支持を
    得るため派兵が必要なのだと主張していますが、反対勢力は、
    ノ・ムヒョンを米国の傀儡(かいらい)と非難したそうです。

    ノ・ムヒョンは、2008年2月24日に退任することになっていました。
    それに先立ち、次期大統領選挙が進んでいました。2007年末には、
    李明博(イ・ミョンバク)がハンナラ党予備選挙で勝利し、次期
    大統領選の党公認候補となりました。

    李明博は、貧困から身を起こし、高校時代より5時間以上寝た
    ことはなく、1日18時間働き現代建設に就職して以来、、29歳で
    取締役、36歳で社長、47歳で会長と、韓国の経済人としては、
    伝説的な存在で、ソウル市長を経て政界入りしたそうです。
    大統領選挙では、与党の大統合民主新党の候補を大差で下して
    2008年に当選を果たしました。(2013年任期満了)
    生い立ちは、大阪に生まれ、韓国に家族で韓国に戻ったようです。
 
    李明博は「韓国747」計画(毎年平均7%の経済成長、一人当たり
    4万ドルの国民所得、韓国を世界7大経済大国にする)を就任の
    スローガンして、「豊かで、温かい社会、そして強い韓国」を
    目指しているそうです。

    就任後、2008年4月に、BSE(狂牛病)で問題となった、米国産
    牛肉の全面的な輸入再開方針を決定したことで国民の猛反発を
    受け、大規模な抗議運動を受けるなど、支持率は25.4%と就任
    直後としては異例の低支持率となり、米国や周辺国との外交が
    行き詰まり、さらに、秋には世界同時不況、景気悪化、株価の
    下落、ウォン安に苦戦を強いられました。

    ノ・ムヒョン大統領は2008年2月24日に退任後、側近や親族が
    贈賄容疑で相次いで逮捕されました。ノ・ムヒョン自身も、
    不正資金疑惑で事情聴取が行われ、近い内、逮捕もあり得る
    という状況の中で、5月23日早朝、自宅の裏山のミミズク岩と
    呼ばれる岩崖から投身自殺を図り、死去しました。

    韓国内には大きな衝撃が走り、ノ・ムヒョン支持派の人々は、
    一連の捜査が、李明博政権下でおきたスキャンダルに対する
    煙幕だとして抗議しているそうです。ノ・ムヒョン元大統領
    の葬儀は、国葬に次ぐ格式の「国民葬」が執り行われました。

    李明博政権は、経済対策での動きが評価され、最近は支持率が
    32.6%とやや持ち直しているものの、ノ・ムヒョン元大統領
    自殺事件などでは、国民から、その強引な捜査方法で不評を
    買いました。北朝鮮には、金大中、ノ・ムヒョン政権時代の
    太陽政策を一転し、厳しい態度で臨んでおり、核問題や先の
    弾道ミサイル打ち上げ事件にも直面しており、これからも
    厳しい状況が続くことが予想されます。