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    <スリランカの歴史>

    紀元前5世紀に、北インドからシンハラ人が移住して王国をつく
    ったそうです。 紀元前3世紀には、インドで仏教を広めるのに
    熱心であった、アショーカ王の王子、マヒンダが仏教を伝えます。

    その後紀、元前2世紀に、ヒンズー教徒であるタミール人の侵攻
    に対し、シンハラ人は仏教を守り、文化を育てていきました。
    今でもスリランカは仏教(小乗仏教)の中心地として、その信仰
    を守っています。

    11世紀後半からは、首都は、中部のポロンナルワにおかれました。
    13世紀からは、タミール人の侵入が激しくなりました。この頃、
    スリランカを訪れたマルコポーロは、「ここは世界で一番すばら
    しい場所だ」と言ったそうです。16世紀には、ポルトガル人が、
    コロンボに商館を建設しました。

    18世紀になると、イギリス人によって約100万人のタミール人が、
    お茶とゴムのプランテーションでの労働のために連れてこられま
    した。1948年に、セイロンはイギリスから独立しますが、正確に
    言えば、完全な独立ではなく、イギリスとセイロンの間で結ばれ
    た、防衛合意のようなものだったようです。

    独立後、シンハラ人が多数派を占める国会は、公民権法を制定し
    ました。しかしこの法律により、18世紀にイギリス人によって移住
    させられた、約103万人のタミール人は、公民権を失いました。
    さらに、1949年には、タミール人は、選挙権も失いました。

    1958年には、経済は停滞し、外国からの投資も不足していました。
    タミール人労働者は、不足している職の競争者として見られるよう
    になっていきました。1958年5月23日、反タミール暴動が起こります。
    政府は非常事態宣言を発し、厳しい、軍事管理がタミール人地域で
    行われました。

    1959年には、セイロンの公用語として、シンハラ語公用語法を制定
    させた首相のバンダラナイケが暗殺されます。

    1971年には、統一テストの結果による入学という「標準化政策」が
    導入されました。「標準化政策」の意図は、教育的に不利な地域の
    学生(主にタミール人)に、有利な地域の学生(主にシンハラ人)
    と同じ教育の機会を与えるというものでしたが、逆に、不利な地域
    の学生が差別され、タミール人学生の教育機会が、シンハラ人学生
    に比べて、非常に不利になったそうです。

    1972年、新しい憲法が採択され、セイロンはスリランカと国名を改
    めました。イギリスと関係はより遠くなり、共和国を宣言しました。
    この憲法により、シンハリは改めて公用語と宣言され、また、仏教
    は、準国教的地位を与えられました。新しい共和国憲法のよって、
    シンハリ人とタミール人の主権は以前の地位に戻りました。

    しかし、シンハリ人の攻撃に反撃するために、武器を取るのが唯一
    の道だと考えたプラバカランは「新しいタミールの虎」という組織
    を作りました。1975年には、「タミール・イーラム解放の虎(LTTE)」
    (Liberation Tigers of Tamil Eelam)」と名称を変えました。
    プラバカナンは議長と軍司令官に指名されました。

    加えて、1976年、タミール統一解放戦線(TULF)が結成されました。
    TULF大会では、タミール・イーラムの独立国家を設立する決議が
    採択されました。

    1978年、新しい憲法のもとに 政府の大統領制度が実施されます。
    J.R.ジャヤワルデネが初代大統領に就任しました。
    「タミール・イーラム解放の虎(LTTE)」は政府によって非合法組織
    として禁止されました。1979年、テロリズム防止法を制定されます。

    その後、タミール地域には非常事態が宣言され、タミールの若者が
    治安部隊によって射殺される事件も起りました。
    1981年6月には、シンハリ人による反タミール民族暴動が起こります。

    1983年、LTTEは政府軍に対して地雷を用いて最初のゲリラ攻撃を行
    いました。この攻撃は、シンハラ人による反タミール人暴動を引き
    起こし、何千人もの人命が犠牲になりました。

    1984年、コロンボからその南東に位置するスリジャヤワルダナプラ
    コッテへ遷都しましたが、行政庁舎は旧首都に残されました。

    1985年、スリランカ政府とタミール人指導者の間の交渉がブータン
    の首都ティンプーで行われましたが、この交渉は失敗に終わります。

    1987年、LTTEは独立を宣言します。スリランカ政府は、タミール人の
    多く住む、ジャフナ半島を経済封鎖します。そして、シンハリ人から
    なる軍隊は、ジャフナ地域へ攻撃を掛けました。

    同年、インドのラジブ・ガンジーと、スリランカのジャヤワルデネは、
    インドースリランカ和平協定を調印しました。この協定に基づき、
    インドは、数万人のインド平和維持軍をスリランカに派遣しました。
    そして、タミール人の自治を大幅に拡大する方向が決定されました。
  
    しかし、これに対してシンハリ人による反対運動が起こり、シンハラ
    人過激派のスリランカ人民解放戦線(JVP)によるテロ活動が激化します。

    1988年、プレマサダが大統領に就任しました。プレマサダは、LTTEと
    直接交渉を行い、その結果、一応の停戦が決まります。 1990年3月に
    インド平和維持軍も撤退しました。けれども、再び6月に 政府軍と
    LTTEの戦闘が再開しました。1991年、 インドはラジブ・ガンジーの
    暗殺にLTTEが関与しているという理由で、インド国内でのLTTEの活動
    を禁止しました。 1993年には、 プレマサダは、LTTEの自爆テロにより
    殺害されました。

    1994年、スリランカ自由党(SLFP)を中心とする人民連合(PA)が勝利し
    SLFPの副党首チャンドリカ・バンダラナイケ・クマラトゥンガが
    大統領になりました。そして、首相として、母親のシリマボ・バンダ
    ラナイケを任命します。

    1995年、再び、スリランカ政府とLTTEの間で停戦協定が結ばれました。
    しかし、LTTEが停戦協定を破り、政府軍を攻撃します。 政府軍はLTTE
    に対し、本格的な攻撃を始め、ジャフナ半島に攻撃を開始しました。
    戦闘の結果、タミール人地域最大の都市である、ジャフナ市が、政府軍
    の攻撃により陥落しました。

    1996年、コロンボ、にある中央銀行ビルがLTTEの3人の兵士によって爆破
    される事件が起りました。死者は72人以上、負傷者1200人以上の大惨事
    となりました。場所は、官庁や各企業のビルが建ち並ぶボンベイの中心地
    であり、中央銀行ビルは大統領官邸から200m弱の場所にあったそうです。

    2002年、LTTEとの停戦合意します。しかし、2006年7月に、北東部で断続
    していた政府軍と反政府ゲリラとの戦闘は再燃しました。8月には、北部
    のジャフナ半島で、政府軍がLTTEに大規模場反撃を加え、少なくとも、
    LTTE側の98人が死亡、約100人が負傷したそうです。さらに、 10日後に、
    LTTEが仕掛けた手製爆弾が爆発し、政府軍兵士6人が死亡、11人が負傷し
    たそうです。双方に計約650人の死者が出た模様です。

    <日本とスリランカの関係>

    日本が第二次世界大戦に負け、1951年にサンフランシスコ
    講和条約締結後、世界で一番早く正式に日本と外交関係を
    結んだのはスリランカでした。

    当時の大蔵大臣で、後に、初代スリランカ大統領になる
    ジャヤワルダナは、日本に対して、連合国側から分割統治
    などの強硬案が出される中で、対日賠償請求権の放棄を
    語っています。

    「・・・我々は損害賠償を要求しようとは思いません。
    我々はブッダの言葉を信じているからです。ブッダの言葉、

    「憎しみは憎しみによっては止まず、ただ愛によってのみ止む」

     が人道の波を南アジア、ビルマ、ラオス、カンボジア、
     シャム(タイ)、インドネシアそして、セイロン(スリランカ)
     へ伝わり、ヒマラヤを通ってチベット、支那(中国)そして
     最後に日本へ伝わりました。

     これが我々を数百年の間、共通の文化と伝統で結び付けて
     いるのです・・・
     我々は日本人に機会を与えなければいけません。・・・」