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    <シリアの歴史>

    シリアの周辺の地域は、紀元前1800年頃には、メソポ
    タミアの南部で成立した、バビロニア王国の支配下
    にありました。その後も長く、バビロニアやエジプト
    の影響を受けていました。

    紀元前8世紀には、メソポタミアの北部に起こった、
    アッシリアに支配され、紀元前6世紀には、今度は、
    新バビロニアの支配下となりました。

    紀元前538年には、アケメネス朝ペルシャの支配下に
    入りました。続いて、ペルシャを滅ぼしたマケドニア
    王国のアレクサンドロス大王が、この地域を支配し、
    紀元前4世紀の終わりには、大王の後継者の一人である、
    セレウコス将軍が、アンティオキアという地を都として、
    セレウコス朝シリアをおこしました。

    しかし、セレウコス朝は、紀元前130年に、イラン高原の
    東北部におこった、遊牧民の長である、アルサケスが建
    てたパルティア王国に敗北し、シリア周辺の地は、パル
    ティア王国の支配下に入りました。

    紀元前64年には、ローマ帝国によりセレウコス朝は滅ぼ
    され、シリア周辺の地域は、ローマ帝国の一地方となり
    ました。その後、1世紀頃からは、隊商の都市であった、
    パルミラが特に発展し、ゼノビアを事実上の女王として、
    小アジアからナイル流域まで勢力をのばしたそうです。
 
    さらに、271年には、ゼノビア女王は、ローマからの独立
    を図りましたが、272年にローマのアウレリアヌス帝に
    滅ぼされました。395年以降、シリアは東ローマ帝国
    (ビザンチン帝国)の支配下に入りました。

    636年には、アラブ人によって征服され、イスラム帝国の
    本拠地となって拡大し、発展しました。特に661年には、
    ダマスカスは、ウマイヤ朝の首都となって繁栄しました。
    その後、イスラム帝国のアッバース朝になると、首都は
    バグダッドへ移り、シリア周辺の地は、衰えたそうです。

    12世紀の終わりは、十字軍や、モンゴル帝国の侵略により
    シリアは大きな打撃を受けました。1174年には、十字軍の
    遠征に対して、後のエジプトのアイユーブ朝の王で、首都
    ダマスカスで育った英雄サラディンがシリアの地を防衛し、
    さらに、十字軍によって樹立された、キリスト教の王国の
    エルサレム王国を破り、エルサレムも奪回しました。

    しかし、1260年のモンゴル帝国の侵略により、この地域は
    完全に荒廃したそうです。

    その後は、オスマントルコが、1516年にシリアを支配下に
    おき、4世紀にわたり、シリアを統治することになりました。
    この間のシリアは、オスマントルコと、エジプトの間に
    はさまれ、地方政権が割拠している状況だったそうです。

    19世紀に入ると、オスマントルコ支配下のヨーロッパの
    各国では、強い民族運動がおこり、独立闘争を始めてい
    ました。シリア周辺も、東西の陸上貿易の中継地であり、
    経済上、極めて重要な地だったので、西欧列強の進出も
    強くなっていました。

    第一次世界大戦(1914年〜1918年)で、オスマントルコは
    ドイツ側につき敗北しました。シリアは1918年にオスマン
    トルコより独立し、ファイサル1世が、シリア王国の国王
    に即位しました。

    しかし、第一次世界大戦が始まったとき、イギリス政府は
    ドイツ側のオスマントルコに対抗する勢力を強化するため、
    アラブに対して、戦後の独立への希望を示していました。

    1916年には、メッカの盟主ハーシム家のフサインに対し、
    連合国側に協力すれば、イギリスは、戦後、現在のシリア
    とイラク周辺を、アラブの土地として独立させることを
    保証していました。

    しかしその一方で、イギリス、フランス、ロシアは、
    秘密に「サイクス・ピコ協定」と呼ばれるシリアの分割
    協定を結んでいたそうです。協定では、フランスには、
    現在のシリアとレバノンにあたる地域を、イギリスには、
    パレスチナをふくむ、イスラエルとヨルダンにあたる地
    域を割り当てるというものだったそうです。

    さらに、1917年には、イギリスは「バルフォア宣言」で、
    ユダヤ人のための独立国家をパレスチナに樹立する約束
    をしていました。

    アラブ人は、連合国側についてオスマントルコと戦いま
    した。フランスは、第一次世界大戦後の1919年、シリア
    とレバノンを、近い将来独立させるという条件で、国際
    連盟からの委任統治が認められました。

    これに対して、シリアでは、イギリスから約束された
    独立ではなく、一方的にフランスに譲られた事に対して、
    不満がつのり、シリアの反トルコ感情は、反フランス
    感情へとかわり、独立運動へと発展しました。

    1920年の武装蜂起に続き、1925〜1927年に、イスラム教
    ドルーズ派による蜂起がおこりました。

    第二次世界大戦(1939〜1945年)の発生後も、シリアは
    フランス政府の管理下におかれました。第二次世界大戦
    後も、フランスはシリアに対する影響力を、行使し続け
    ようとしましたが、イギリス軍の介入により、フランス
    は撤退しました。そして1946年に、シリアは、シリア・
    アラブ共和国として独立を達成しました。

    また、第二次世界大戦中の1944年には、レバノン、シリア、
    ヨルダン、イスラエルを含めた、英仏に分割される以前の、
    シリア・アラブ国を再興するという「大シリア主義」が
    提唱されていました。戦後の1948年、シリア軍はアラブ軍
    と共に、新しく建国されたイスラエルに対して戦いますが
    敗北しました。(第1次中東戦争)

    1950年代に入ると、バアス党(バアスはアラビア語で
    「復興」を意味し、アラブ主義であるが、イスラム
    原理主義とは対立している党)が主導権を握りました。
    バアス党は、西側諸国とは距離をおき、ソビエト連邦
    寄りの、社会主義的傾向を強めました。

    1956年に、それまで英仏が支配していた、スエズ運河
    をエジプトが国有化したの対し、イギリス、フランス、
    イスラエルはエジプトへ攻撃をしました。(スエズ動乱=
    第二次中東戦争)この時、エジプトのナセル大統領は、
    西欧列強に立ち向かったとして、アラブ各国の民衆を
    熱狂させました。

    人気の出たナセルに急接近したのが、やはりアラブ統一
    を目指していた、シリアのバアス党でした。1958年に、
    シリアとエジプトでおこなわれた国民投票で、両国の
    合邦が決まりました。ナセルを大統領とする、アラブ
    連合共和国(UAR)が発足しました。(首都は、カイロ)

    しかし、ナセルは、シリアのすべての政党を解散させ、
    各種の企業を、積極的な国有化する政策をとりました。
    この政策は、シリア内の保守派の反対を強めることに
    なります。1961年に、軍と人民党がクーデタをおこし、
    ダマスカスを占領し、シリア新政府は再独立を宣言し
    統合は崩壊しました。そして、1963年にはバアス党が、
    政権を樹立しました。

    1966年、シリアとエジプトは、イスラエルに対する
    防衛協定を結びました。しかし、シリアとイスラエル
    の国境線では、その後も度々争い続きました。
    1967年に、第三次中東戦争が始まり、イスラエル軍に
    より、ゴラン高原を占領されてしまいました。

    この時、シリアは、イギリスとアメリカがイスラエル
    へ積極的な支援をしていると非難し、両国との外交
    関係を断ちました。

    1970年には、バアス党で急進派と穏健・現実主義派が
    対立し、国防相であったハーフェズ・アル・アサドを
    リーダーとした穏健派が、クーデターで実権を握り、
    1971年には、アサドは大統領に選出されました。

    1976年に、シリアは、レバノンのマロン派キリスト教
    勢力と敵対している、イスラム教徒左派とPLOを攻撃
    するため、レバノン政府の要請によって、平和維持軍
    をレバノンに派遣し、軍事介入しました。
    
    ムスリム同胞団(エジプトのイスラム原理主義組織で、
    活動の拠点をエジプトからシリアに移し、過激な行動
    に出ていた)は、このレバノンへの軍事介入に反対し、
    アサド政権へ敵対しました。

    1982年、ムスリム同胞団の拠点である、古都、ハマ
    において、ムスリム同胞団の大規模な暴動が起こり
    シリア政府は鎮圧しましたが、一万人とも言われる
    住民の死者が出たそうです。

    1986年、イギリスは、シリアをテロ支援国家として
    外交関係をたち、アメリカは経済制裁を科しました。

    1987年には再び、レバノン政府の要請により、7000人
    のシリア軍が、レバノンのベイルートに派遣され、
    駐留することとなりました。

    このレバノンの内戦は1991年に終わり、シリアと
    レバノンは友好条約に調印しましたが、その後も、
    3万人以上のシリア軍がレバノンに残留し、レバノン
    の政治に関わるようになりました。

    1992年に、アサドは4期目の大統領に再選されました。
    その当時、シリアは、ソ連の軍事援助により体制を
    保っていましたが、ソ連の崩壊後は、西側諸国、特に
    アメリカへの接近を図るようになりました。

    この当時、シリアとイラクとの関係は複雑でした。
    シリアと同じく、バアス党がイラクでも政権を握って 
    いましたが、主導権争いなどで関係は良くなく、
    シリアは、イラン・イラク戦争(1980〜1988)では、
    イランを支持した数少ないアラブの国のひとつだった
    そうです。

    また、イラクがクウェートに侵入した1990年以後、
    シリアはサウジアラビアへ軍隊を送りました。
    そして、1991年から始まった湾岸戦争では、多国籍軍へ
    の参加の見返りとして、シリアはアメリカのテロ支援国
    リストから外されることとなりました。

    1994年、シリアは、ゴラン高原に関してイスラエルと
    交渉を始めました。しかし、イスラエル軍のゴラン高原
    からの撤退交渉は、イスラエルの連続爆弾テロや、
    レバノン南部に対する攻撃で中断しました。

    さらに、1996年に登場したイスラエルのネタニヤフ政権
    の、シリアへの強硬姿勢によって、両国の関係は一段と
    悪化したそうです。

    1999年のイスラエル首相選挙で、和平推進派の労働党の
    党首、バラクが当選したことによって、和平交渉が再開
    されました。しかし、両者の主張は平行線をたどった
    まま、交渉は中断しました。

    2000年に、ハーフェズ・アサド大統領は心不全で死去し、
    息子のバシャール・アル・アサドが大統領に選出され
    ました。就任後、外国投資の受け入れやIT産業の育成、
    その他、改革路線を始めました。

    しかし、イスラエルとの関係を進展させることはできず、
    国際的に非難されてきた、レバノンに対する支配力も、
    保持したままだったようです。

    2004年に、レバノンでは、憲法の大統領再選禁止条項が
    修正され、親シリア派のラフード大統領の続投が決まり
    ました。しかし、これはレバノンを支配したい、シリア
    の意思にそった決定であるとして、レバノンに大きな
    権益を持つフランスとアメリカは、強く反発しました。

    そして、レバノンに駐留する、シリア軍の即時撤退と、
    レバノンの主権の尊重をうたう決議案が、国連安全保障
    理事会(国連安保理)に緊急提出されました。

    これに対し、アサド大統領は、レバノンの治安維持を
    理由に、国連で採択された、この決議案を無視して、
    軍の駐留を続けてきました。しかし、2005年2月14日、
    かねてからシリア軍のレバノン駐留に反対していたた
    ハリリ前首相が、ベイルートでテロにより暗殺される
    事件が発生し、レバノンではシリアが暗殺に関わって
    いたという見方と共に、反シリア感情が強まりました。

    これをきっかけに、国連や欧米諸国、サウジアラビア等
    アラブ諸国からも、シリア軍の撤退を求める声が大きく
    なり、アサド大統領は、国連の説得をうけて、レバノン
    からの撤退を表明し、2005年の4月に完全撤退しました。

    2007年には、アサドが大統領信任投票で圧勝し、2期目
    に就任しました。

    シリアは、中東アラブ諸国の中で、イスラエルに対抗
    する軍事力を持ち、シリアとイスラエルの和平交渉が、
    イスラエルとアラブ諸国の関係で最大の比重を占めて
    いるそうです。

    パレスチナの自治が開始され、ヨルダンとイスラエルと
    の国交が回復したことに続き、シリアはイスラエルとの
    和平交渉を、現在もアメリカで行っているそうです。