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    <チベットの歴史>


    チベットに住むチベット族は、旧石器時代(紀元前
    1万3千年〜紀元前1万年)からの長い歴史を持ち、
    これも、紀元前からすでに、黄河中下流域の平原に
    住む漢民族とつながりをもっていたそうです。

    チベットの神話伝説によると、チベット族の先祖は、
    一匹の猿と、岩の精女とであったそうです。この
    夫婦から生れた子供達は、半猿半人で、直立でしたが、
    全身を毛で覆われ、のっぺりした顔をしていたそうです。

    先祖の猿は、子供たちに、住むべき場所として南方の
    森を指定し、子供達は、そこで牝猿と一緒になって、
    増殖していったそうです。

    しかし、夏になれば、雨と太陽とにいためつけられ、
    冬になれば、雪と風とに悩まされ、定まった食物も
    なければ、衣服もなかったそうです。

    観音の化身である彼等の先祖はこれをみて憐み、
    彼等に六種の穀物(蕎麦、大麦、芥子、小麦、米、
    胡麻、豆)を与えました。こうして、畑がつくられ、
    猿人達は、少しずつ人間の形をとっていったとか。

    7世紀に、観音菩薩の化身と称するソンツェン・ガムポ
    が、武力によって吐蕃王朝を立てました。そして、隣国
    の中国の唐(618〜907年)とネパールから、友好の証
    として、王家の娘を嫁に迎え入れるようになりました。

    1277年には、当時強大だったモンゴルの元が、チベット
    にも侵攻します。モンゴルの支配者は、チベット仏教の
    教えに感銘し、モンゴル人の間にチベット仏教の教えが
    浸透していったそうです。(なお、モンゴルは現在も、
    チベット仏教の信者の多い国だそうです。)

    元が滅び、明の時代になると、チベットの王と明王朝と
    の間には、ときおりの外交関係もあったそうですが、
    明がチベットに対して、政治権力を行使したり、支配し
    たりすることはなかったそうです。

    1642年には、チベット指導者のソナム・ギャンツォが、
    当時、モンゴルの支配者であるアルタン・ハンから、
    「ダライ・ラマ」の称号を授かり、この時以来、代々の
    ダライ・ラマ法王がチベットを統治していくようになり
    ました。

    17世紀の清王朝の時代になると、清の皇帝は、ダライ・
    ラマ(チベット仏教界の序列一位、政治権力を持つ)と
    パンチェン・ラマ(チベット仏教界の序列二位、政治
    権力は持たない)の地位を定め、チベットのラサに大使
    を置きました。

    清の皇帝は、西モンゴルからおこり、チベットに王朝を
    樹立させた、グシ・ハン一族(熱心なダライ・ラマ信者)
    が、チベット各地に保有していた土地を接収し、南半分
    をダライ・ラマ領に加えました。

    また、グシ・ハン一族によって、1642年に、ダライ・ラマ
    に寄進された、ヤルンツァンポ河流域と、この新たに
    ダライ・ラマ領に加えられた地域を併せた領域が「西蔵」
    地方と呼ばれるようになりました。

    こうして、チベットと四川・雲南・青海との境界が正確に
    決められたそうです。

    元王朝と同じく、清朝の皇帝もチベット仏教を信仰し、
    チベットと中国は「お寺と檀家」のような関係であった
    そうです。

    18世紀の末以降になると、インドを植民地化していた
    イギリスは、チベットとの通商にも、強い関心を寄せる
    ようになりました。チベットは、周囲のヒマラヤの小国
    たちが、条約や協定などを通じて、次々と、英領インド
    に従っていく状況を見て、イギリスの言いなりになれば、
    近隣国の二の舞になることを心配しました。そこで、
    ダライ・ラマ13世は独立を貫徹したそうです。

    ロシアが南下し、チベットがロシアの手中に収まること
    を恐れていたイギリスは、チベットとの有効な話し合い
    を持つために、清に対して、チベットが協調的な態度を
    取るよう協力してほしいと願い出ました。この結果、
    チベットの知らない間に、1890年と1893年の2度にわたり、
    イギリスと清の間でチベットに関することを含む条約が
    取り交わされました。

    チベット政府は、これを中国の越権行為だとして拒否
    したため、イギリスは1903年に、英領インド軍を使い
    チベットへ侵攻することになりました。翌年イギリスは
    チベット政府とラサ条約を結び、ダライ・ラマ13世を
    追放した後、1年も経たずにラサから引き上げました。

    この英領インド軍の侵攻に驚いた清朝は、ダライ・ラマ
    や諸侯による自治に委ねてきた旧制を廃し、チベットを、
    直接に掌握することを決め、1905年、四川軍を西方に
    向かって進発させました。チベット人の抵抗も叶わず、
    四川軍は、1909年にラサに到達しました。そして、
    四川省の西部とダライラマ領の東部(カム地方)を西康、
    その他のダライラマ領を西蔵と、2つの省を設置して、
    チベットを中国に取り込みました。

    1911年に、中国の共和化を目指す辛亥革命が勃発すると、
    チベットを占領していた清の四川軍は動揺します。
    インドに脱出していたダライ・ラマ13世も、1913年に
    チベットに帰還し、チベットの独立を求めて抵抗を指令
    し、その結果、チベットにおける満州人の支配は崩壊
    しました。

    同年、ダライ・ラマ13世は、チベットの独立を宣言し、
    同じく、清から独立したモンゴルと相互承認条約を締結
    しました。1914年に、インドを支配していたイギリスは、
    チベットと国境を決めました。(マクマホン・ライン
    この国境に関しては、後に中印国境紛争が勃発する。)

    チベット政府は、チベット全域の領有を目指しましたが
    のに対し、清の滅亡後、1912年に南京に樹立した南京
    国民政府(後の中華民国である台湾政府)は、清の時代
    の領土を主張し、チベット全体が中国領であると主張し
    続けました。そして、1931年、実際にはチベット政府の
    統治下にあった、カム地方全域を、西康省としました。

    1933年に、ダライ・ラマ13世は死去しました。その後、
    1940年に、ダライ・ラマ14世が即位しました。

    1947年、インドがイギリスから独立した時、チベットと
    イギリスの間の条約も継承され、インド政府がチベット
    外務省に送った文書では、チベットを国として認めて
    いたことが伺えるそうです。

    その後、中国共産党は、南京の国民党との内戦に勝利し
    ました。チベットに対しても、欧米諸国からチベットを
    解放することを名目に、人民解放軍がチベットを侵攻し、
    1949年までにアムド(青海)地方、カム地方を制圧し、
    中華人民共和国の建国を宣言しました。

    さらに、1951年、西蔵和平解放と称して、人民解放軍を
    中央チベットに派兵、1951年にラサを占領し、チベット
    全土を制圧し、チベット自治区として編入したそうです。
    これに対して、チベット政府は、中国に侵略を受け、
    西蔵和平解放協定として、「十七ヶ条協定」に無理やり
    調印をさせられたと、国連に提訴したそうです。

    この「十七ヶ条協定」では、チベットは、中国に「復帰」
    するものと規定していましたが、ダライ・ラマを初めと
    するチベット政府が、引き続き、西蔵を統治し、改革は
    強要されないという規定だったたそうです。

    しかし、西蔵地方以外の、その他のチベット各地では、
    中国による、社会主義への改造が、1950年代半ばから、
    チベット社会の独自性を無視して一挙に強要されること
    となり、反感がつのっていったそうです。

    1955年に、北京政府はチベット政府に代わり「西蔵自治区
    準備委員会」の設立を提案します。 中国による改革が、
    特権階級の廃止に向けられている間は、歓迎されていま
    したが、改革の矛先が寺院・僧侶にまで向かった段階で、
    チベット人の反発は一挙に民衆レベルにまで拡大し、
    1956年、アムド(青海)地方、カム地方で、中国支配に
    反発する一斉蜂起が始まりました。(チベット動乱)

    1957年には、アムド、カムの抵抗勢力は、中国に対して
    ゲリラの統一組織を結成し、アメリカのCIAの支援も
    受け、中央チベット(西蔵)でゲリラ活動を始めます。

    争乱は1959年にラサにも波及しました。中国はチベット人
    87000人を殺害して蜂起を鎮圧しましたが、ダライ・ラマ
    14世は、80000人のチベット人と共に、インドへ亡命しま
    した。そして、北インドのダラムサラに、亡命政府を作り
    ました。周恩来首相は、チベット政府の解散を宣言し、
    チベットを、西蔵自治区籌備委員会の管轄下に置きました。

    1961年、国連総会は、チベット問題に関する決議第2号を
    採択し、チベット人に自決権を認めました。
    さらに1965年には、国連総会がチベット問題に関する第3の
    決議を採択し、「チベット人が常に享受していた人権と
    基本的自由をチベット人から奪うあらゆる行為の停止」を
    改めて中国に要請しました。

    1965年に、西蔵自治区人民政府が成立し、翌年の 1966年、
    西蔵自治区が発足します。この頃、毛沢東の紅衛兵がラサ
    へ進駐を開始し、文化大革命が波及し、 チベット各地で
    お寺などの文化遺産が徹底的に破壊され、高価なものなど
    は中国に持ち去られたそうです。

    1975年に、ネパールのムスタンにあったチベット・ゲリラ
    基地は閉鎖されます。 1977年に、中国は、ダライ・ラマ
    の帰国を呼びかけます。1983年には、中国との和平会談は
    最終的に決裂し、1984年、チベットの亡命政府は、中国に
    よる侵略や占拠の結果として、120万人のチベット人が死亡
    したと発表しました。

    1986年になると、ラサなどは、対外的にも開放され、外国人
    が訪問することも可能となりました。

    1987年に、ダライ・ラマ14世は、アメリカ議会の人権会議で
    演説し、中国政府との交渉によって、チベット問題の解決を
    図るための 「五項目和平プラン」を提案しました。

    1988年には、ダライ・ラマ14世は、欧州議会で、ストラス
    ブール提案を発表し、「独立」にかわり、チベットの3州を
    統合し真の自治をするが、チベットの防衛、外交については
    引き続き、中国が担当することができると提案しました。

    1989年に、亡命中のダライ・ラマ14世は、チベット独立を
    求めるデモの中、武力で弾圧を続ける中国政府に対して、
    非暴力主義を掲げ、平和的に独立を要求してきたことが
    国際的に評価され、ノーベル平和賞を受賞しました。

    同年、チベット第二の高僧である、パンチェン・ラマが死亡
    しました。 死の数日前、パンチェン・ラマは声明で中国の
    チベット支配は、利益よりも多くの害をもたらしたと指摘し
    ました。

    1992年、ダライ・ラマ14世は、将来、チベットが自由を回復
    した時には、選挙によって選ばれた政府のために、チベット
    亡命政府は解散し、権限を放棄すると述べました。

    1995年、死亡したパンチェン・ラマの転生者をめぐって、
    ダライ・ラマ政権と中国政府が対立し、それぞれが違う人物を
    パンチェン・ラマ12世と認定しました。

    1997年、ダライ・ラマ14世は台湾を訪問し、嵐のような歓迎を
    受け、李登輝総統とも会談します。

    2000年、ダライ・ラマ、パンチェン・ラマに次ぐ、第3位の
    高僧であるカルマパ17世が、信仰の自由が中国国内では認めら
    れないなどの理由により、インドのダライ・ラマ政権へ亡命を
    しました。2001年には、カルマパ17世は、インド政府より難民
    としての在留資格を与えられました。

    2008年、中国北京での五輪(オリンピック)も目前ににて、
    チベット動乱が発生しました。