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    <トルコの歴史>

    トルコは歴史的遺産の宝庫です。東洋文化、西洋文化の境界に
    おいて、数多くの歴史が刻まれています。(ちょっと長いです)

    新石器時代にあたる、紀元前6500年には、チャタルヒュユック
    に最初の集落が作られました。人々は、日干し煉瓦の家で生活
    していたそうです。

    紀元前3000年頃には、エーゲ海沿岸のトロイに都市が築かれ
    ました。遺跡を発掘したのは、有名なシュリーマンです。

    紀元前1500〜1400年前には、アナトリア地方にヒッタイト文明
    が、栄えました。国力の源となったのは鉄器であり、その製鉄
    技術は、国外不出とされていました。ヒッタイトは首都を
    ハットゥシャシュにおきました。紀元前13世紀には、当時の
    強国エジプトと戦うほどの強国でしたが、紀元前1200年頃には、
    トラキア人の侵入により滅ぼされてしまいました。

    その後は、小王国が分立します。紀元前6世紀半ばに、
    アナトリア一帯はペルシア帝国の支配下に入りました。
    この強大なペルシア帝国も、紀元前334年、マケドニアの
    アレキサンダー大王によって滅ぼされました。この時に、
    ギリシア世界とオリエント世界が文化的に接触し、ヘレニズム
    文化が生まれました。

    アレキサンダー大王亡き後は、アナトリア西部に、ペルガモン
    王国などの小国家が誕生しました。ペルガモン王国はギリシャ
    文化を受け継ぎ、国内に数多くの神殿や劇場を建設しています。

    その後、紀元前30年頃までにアナトリアの小国はローマ帝国の
    支配下に置かれます。4世紀始め、ローマのコンスタンティヌス
    帝は、帝国の首都をビザンチオン(今のイスタンブール)におき、
    首都名をコンスタンティノープルと改名しました。

    395年に、ローマ帝国が東西に分裂した際、コンスタンティノー
    プルは、東ローマ帝国(ビザンチン帝国)の首都となりました。
    この帝国は、エジプト、シリアからイタリア、スペイン南部に
    まで勢力を伸ばし、コンスタンティノープルにはギリシア正教の
    総本山が置かれました。

    一方、552年に突厥(トッキ Turkey)王国を樹立したトルコ
    民族の源流が、モンゴル高原より8世紀後半に西進を開始します。
    10世紀にはイスラム教に改宗し、東は中央アジア、西はアナト
    リア地方まで勢力を伸ばし、1037年にセルジューク・トルコ
    王国を成立させました。しかし、1200年代後半のモンゴルの侵入
    によりセルジューク・トルコは弱体化しました。

    そうした中で、オスマン(1258〜1326年)に率いられた、西アナ
    トリアのオスマン・トルコは次第に勢力を伸ばしました。
    1453年、コンスタンチノープルは占領され、ビザンティン帝国
    も滅亡しました。オスマン・トルコは文化的絶頂期を迎えます。
    その支配は、バルカン半島、東ヨーロッパ、西アジア、そして
    北アフリカまで拡大し、約200年、繁栄が続きました。

    しかし、18世紀に入ると、ロシアとの戦争を契機にオスマン・
    トルコは衰退を始めます。支配下にあった、ギリシャが1829年
    に、ルーマニア、ブルガリアが1878年に、エジプトも1839年に
    トルコより独立しました。20世紀に入っても、 アルバニアと
    マケドニアが支配下から脱しました。

    さらに、第一次世界大戦、ドイツ側についたオスマン・トルコ
    は、連合国側に敗北し、シリア、パレスチナ、イラク、アラビア
    半島を失います。トルコの大部分を占めるアナトリア地方は、
    ギリシャ、イタリア、フランス、ロシアに分配され、ほとんどの
    領土を失いました。

    このような苦しい状況の中、立ち上がったのが、今日、建国の父
    とされるムスタファ・ケマルでした。陸軍将官であったケマル率
    いる国家軍は、強力な武器を所有するフランス、イタリア、ギリ
    シャ等の国々と、少人数で満足な武器も無い中戦い勝利しました。

    オスマン・トルコも崩壊し、トルコは国家として承認されます。

    ケマルは、トルコの近代化を目指し、政教分離など数々の改革を
    実施しました。1923年には、トルコ共和国を建国されました。
    初代大統領に就任したケマルは、教育の統一化、名字の使用、
    衣服の西洋化、西暦制、計量単位を導入します。
    言語はアラビア文字からラテン文字へ変更しました。また、
    一夫一婦制の導入、女性権や女性選挙権に至るまで、次々と
    西洋的な制度を導入し、様々な分野で改革を行いました。

    1952年には、トルコはNATOに加盟しました。さらに、
    1999年には、EU候補国になりました。けれども、国民の9割以上
    がイスラム教徒であること、また、国土の大部分がアジアに属する
    など、加盟に対し反対意見もありました。ようやく、念願が叶って
    トルコは2013年からEUに加盟することが正式に決定しました。

    「国内に平和を、世界に平和を」をモットーに、発展を続けている
    そうです。

    <日本との関係>

    エルトゥールル号遭難事件をご存知でしょうか。

    1890年(明治23年)、オスマン帝国(現在のトルコ)の軍艦である
    エルトゥールル号が、和歌山県、串本沖で遭難した事件です。
    住民たちは、献身的に、総出で救助と生存者の介抱に当たり、
    この事件が、日本とトルコの友好関係の起点となりました。

    日露戦争の時は、トルコもロシアの南下に悩まされていた時で、
    黒海を出るロシアの艦隊の動きを日本に知らせたということです。
    日本海軍の英雄、東郷平八郎提督にちなんでトーゴーという名を
    子供につけることが流行したとか。

    1985年、イランイラク戦争の時には、イランの首都テヘランには
    215名の日本人が取り残されていたそうです。
    イラクから、航空機の撃墜予告が出ていた為、どの航空会社も
    救出を拒みました。けれども、トルコ航空だけが、イラクの対空
    ミサイルにさらされながら、テヘランへ、日本人救出に向かった
    そうです。日本人の救出後、日本人がいた地区は攻撃されました。
    危機一髪でしたが、エルトゥールル号遭難事件から、100年経った
    ときでも、その友好関係は変わらなかったということだそうです。