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    <トルクメニスタンの歴史>

    トルクメニスタンは、ウズベキスタンやカザフスタン
    と地理的に近いため、歴史を一部、共有しています。
    参考にしながら、読まれると、より深く理解できるかと
    思います。

    →中央アジアの国の位置関係はこちらを参考
      http://atlas.cdx.jp/nations/asia/asia.htm

    トルクメニスタンの周辺地域は、紀元前6世紀には、
    アケメネス朝ペルシャの支配下にありました。
    その後、紀元前4世紀には、アレキサンダー大王の遠征
    により、支配されることとなりました。アレキサンダー
    大王の死後は、部下セレウコスが樹立したセレウコス朝
    の支配が続きました。

    紀元前3世紀後半には、植民してきた、ギリシア人の王国
    バクトリアの勢力下に入り、紀元前2世紀には、匈奴に
    追われた、イラン系遊牧民の月氏がパミール高原以東から
    移動し、この地を支配したそうです。

    また、紀元前3世紀には、この地域では遊牧民の長である、
    アルシャク(漢字名では安息)が、パルティア王国を建国
    しました。王国の発祥地であるニサ遺跡が残っているそう
    です。現在のアシガバードの位置には、既に小さな集落が
    あったそうです。

    紀元前1世紀後半には、イラン系のクシャーン人が、この
    周辺地域でクシャーン王朝を興し、支配しました。
    しかし、3世紀前半には、クシャーン王朝はイランに興った
    ササン朝ペルシャの支配下に入りました。

    しかし、次第にササン朝ペルシャの力は衰退し、5世紀後半
    には、エフタルという遊牧民族の支配下に入りました。
    このエフタルも、560年代に入り、滅亡したため、その後の
    6〜7世紀には、突厥(とっけつ)の支配下に入りました。
    突厥はトルコ系民族で、突厥とはチュルク(トルコ)の、
    中国語音訳だそうです。

    583年に、突厥は東西に分裂し、トルクメニスタンの地は、
    西突厥に支配されることとなりました。

    7〜8世紀は、アラブによる支配が次第に強まります。
    まず、7世紀から始まった、ウマイヤ朝は 8世紀前半には、
    中央アジアに勢力を拡大し、トルクメニスタンの地は、
    その支配下に入りました。ウマイヤ朝が衰えると、オアシス
    の各都市国家の連合体が、サマルカンドを中心として、この
    地の支配権を握りました。

    9世紀後半になると、アッバース朝の宗主権の下でイラン系
    のサーマン朝が勢力を拡大しましたが、999年、東部から侵攻
    したトルコ系遊牧民カラ・ハーン朝により、滅ぼされました。

    そのカラ・ハーン朝は、1041年に東西に分裂しました。
    西カラハーン朝は、1089年にセルジューク・トルコの宗主権
    下に入り、さらに、12世紀中頃からは、遊牧民のキタイ人が
    興したカラキタイの宗主権下に入ったそうです。しかし、
    そのカラキタイも、当時、トルコ系で強い勢力を誇っていた
    ホラズム王国により、1212年に滅ぼされました。

    そのホラズム王国も、1220年に、チンギス・ハン率いる
    モンゴル軍によって占領され、滅亡しました。モンゴル帝国
    はチンギス・ハンの死後、次第に幾つかの国家に分裂し、
    この土地の周辺は、イル・ハン国やチャガタイ・ハン国の
    勢力下におかれました。1340年代、チャガタイ・ハン国は
    分裂し、西チャガタイ・ハン国がこの地を支配しました。

    その後、14世紀に入ると、ティムールが、サマルカンドを首都
    として強大なティムール帝国を作り、この地を支配しました。
    ティムールの死後は、帝国は内乱と君主継承で混乱したために
    1500年にトルコ系のウズベク人に侵略され、帝国は崩壊した
    そうです。

    16世紀に入ると、トルクメニスタン周辺の地はヒヴァ・ハン国、
    ブハラ・ハン国、そして、イランのサファヴィー朝等に絶えず
    侵略され、分割して支配されることとなりました。その結果、
    当時のトルクメニスタンは、中央部のカラクム砂漠により、
    ヒヴァ・ハン国と、ブハラ・ハン国と分かれていたそうです。

    また、現在の首都である、アシガバートはカラクム砂漠の南、
    イランとの国境をなす、コペット・ダグ山脈の北にある、
    オアシス都市だったそうです。そこはトルクメン人の最有力
    部族である、テケ族の居住地だったそうです。

    18世紀に入ると、ウラル河畔に中央アジア進出の拠点オレン
    ブルグ要塞を建設したロシア帝国は、本格的に中央アジア進出
    を図りました。1868年、ロシア軍はサマルカンドを占領し、その
    後、ブハラ・ハン国の主力軍を敗北させました。これにより
    ブハラ・ハン国はロシア帝国の属国となりました。

    次に、1869年になると、ロシア軍は、カスピ海東岸から上陸し、
    テケ族の領域を次第に侵略し始めました。

    さらに、1873年には、ロシア軍によりヒヴァ・ハン国も征服され、
    ロシア帝国の保護国となったそうです。

    トルクメン人は、ロシア帝国の支配に抵抗しますが、1881年の
    ギョクデペの戦いで大敗北し、抵抗は終わりました。このとき、
    15,000人のトルクメン人が虐殺されたといわれています。結局
    1881年には、ロシア軍はアシガバートを占領し、この地域を
    ロシア帝国の支配下においたそうです。

    この後、トルクメニスタンの周辺は、ロシア帝国主導の元で
    発展します。1880〜1888年にかけては、 ザ・カスピ鉄道の開通
    により、ロシア向け綿花栽培が急拡大しました。 1910年頃〜は、
    ロシア綿工業の原綿の供給地の役割を果たしたそうで。(今も
    繊維工業や綿花栽培は、主要な産業となっているそうです)

    けれども、1917年のロシア革命後、ロシア国内の内戦が活発化
    したのと同時に、1916年〜1918年にかけて、ロシアに対して、
    地元の有力者を中心に住民も巻き込んで、中央アジア各国では
    大暴動(バスマチ運動)もおこりました。暴動は、1920年代半ば
    までに、ソビエト政権によりほぼ鎮圧されました。

    その後1924年には、トルクメン・ソビエト社会主義共和国として
    ソ連邦の構成国の1つとなりました。この後も、農業の集団化に
    反発した遊牧民の抵抗が1936年頃まで続いていたそうです。

    1990年頃から、ソ連邦が事実上崩壊したことを機に、トルクメニ
    スタンも、1990年に主権宣言を行い、直接選挙による大統領選で
    単独候補のサパルムラト・ニヤゾフ最高会議議長が、98.8%の
    高い得票率で、初代大統領に選任されました。

    1991年の国民投票では、ソ連からの独立に94.1%が賛成し、独立
    を宣言しました。1992年には、最高会議が大統領権限を強めた
    新しい共和国憲法を採択しました。さらに同年の大統領選では、
    ニヤゾフ大統領が99.5%の支持で再選されました。

    1995年の国連総会においては、トルクメニスタンは「永世中立国」
    として承認されました。これには、ロシアの影響力を排除する目的
    があったと言われています。ニヤゾフ大統領は、個人崇拝による
    独裁体制をしき、1999年には、終身大統領とされました。
    ニヤゾフ大統領は「テュルクメンバシュ(トルクメン人の長)」
    と称したそうです。これは、ケマル・アタテュルクが「トルコ
    の父」という称号であるのにならったものだそうです。

    ニヤゾフ大統領は、1940年2月19日生まれですが、幼くして孤児と
    なりました。父親は第2次世界大戦でドイツと戦って死亡し、残り
    の家族も、1948年のアシュガバットを廃墟にした大地震で亡く
    なったそうです。ソビエトの孤児院で育てられ、共産党に入って
    昇格していき、ついにトルクメン・ソヴィエト社会主義共和国の
    共産党議長となった人物です。

    他方、2002年、アシガバートで大統領の車列が銃撃を受けます。
    首謀者として反体制派の中心人物であった元外務大臣が逮捕され
    たそうです。そして、2006年12月21日に、ニヤゾフ大統領が未明
    に死亡しました。

    大統領の死去直後、大統領代行であった、オヴェズゲリドゥイ・
    アタエフが刑事訴追を理由に解任されました。

    2007年2月14日の大統領選の結果、89.23%の得票率を獲得した、
    ベルディムハメドフ(前副首)が、正式に第2代大統領に就任
    しました。

    今後、トルクメニスタンは永世中立国として、どのような外交を
    展開するのか、また、独裁的な政治が続き、身動き出来なかった
    野党勢力はどうなるのか、民主化をすすめるのか等、中央アジア
    地域で、独自路線色の強かったトルクメニスタンの国の将来が
    注目されているそうです。