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    <ウズベキスタンの歴史>

    ウズベキスタンは、ローマと長安をつなぐシルクロード
    の真ん中に位置し、ウズベキスタンの周辺は、古代より、
    オアシス都市が栄え、東西交易路シルクロードの中継地と
    なってきました。また、灌漑農業技術を持っていたので、
    砂漠の中に豊かな農耕地帯を築き上げてきました。

    今から、3200年ほど前になると遊牧民の活動が活発になり
    そして3000年ほど前には、各地のオアシスに城壁を持った
    都市が現れたそうです。

    紀元前6世紀には、アケメネス朝ペルシャの支配下にあり
    ました。そして、紀元前4世紀には、アレキサンダー大王
    の遠征により、その勢力下に入りました。

    アレキサンダー大王の死後、部下のセレウコスが樹立した
    セレウコス朝の支配が続きました。そして、紀元前3世紀
    の後半には、植民してきたギリシア人の王国、バクトリア
    の勢力下に入りました。

    紀元前2世紀には、匈奴に追われたイラン系遊牧民の月氏が
    パミール高原以東から移動し、この地を支配したそうです。

    さらに、紀元前1世紀後半には、イラン系のクシャーン人が、
    クシャーン王朝を興しましたが、3世紀の前半にクシャーン
    王朝はイランに興ったササン朝ペルシャの支配下に入ります。

    ついで、5世紀後半には、エフタルという遊牧民族の支配下
    に入りましたがエフタルは滅亡し、6〜7世紀には突厥の支配
    下に入ります。突厥とはトルコ系民族であり、トルコの中国
    語音訳だそうです。

    その突厥は583年東西に分裂し、ウズベキスタンの地は、西
    突厥に支配されました。

    8世紀前半には、イスラム帝国のウマイヤ朝が中央アジアに
    勢力を拡大し、その支配下に入りました。ウマイヤ朝が衰え
    ると、オアシスの各都市国家の連合体が、サマルカンドを
    中心としてこの地の支配権を握りました。

    9世紀後半になるとイスラム帝国であるアッバース朝の下で、
    イラン系のサーマン朝が勢力を拡大し、この地を支配しまし
    たが、999年には、東部から侵攻したトルコ系遊牧民である、
    カラ・ハーン朝に滅ぼされてしまいました。

    そのカラ・ハーン朝は、1042年に東西に分裂しました。
    西カラハーン朝はセルジューク・トルコの下に入り、12世紀
    中頃からカラキタイの下に入りました。しかし、1211年には
    ホラズム王国により滅ぼされました。

    ホラズム王国はトルコ系で強い勢力を誇っていましたが、
    1220年に、ボハラ、サマルカンドなどの都市が、チンギス・
    ハン率いるモンゴル軍によって占領され、滅亡しました。

    モンゴル帝国はチンギス・ハンの死後、次第に幾つかの国家
    に分裂し、ウズベクの地はチャガタイ・ハン国の領土となり
    ました。1340年代、チャガタイ・ハン国は分裂し、西チャガ
    タイ・ハン国が、この地の周辺を支配しました。

    14世紀には、ティムールがサマルカンドを首都として、強大
    な帝国を作りました。サマルカンドには、現在もティムール
    朝の文化をしのばせる建造物が幾つも残っているそうです。
    ティムールの死後、帝国は内乱と君主継承で混乱しました。

    15世紀の初めには、モンゴル帝国の4つの汗国(ハンコク)
    の一つである、キプチャク汗国が分裂して出来たウズベク族
    がカスピ海やアラル海周辺から、南下してきます。なお、
    ウズベクとは、キプチャク・ハン国の最盛期を築いた第9代
    君主である、ウズベク・ハンの名前にちなむという説が有力
    だそうです。    

    そして、1500年に、ウズベク人はティムール帝国を崩壊し、
    ウズベク3ハン国と呼ばれる、ブハラ・ハン国、そして、
    ヒヴァ・ハン国、コーカンド・ハン国を立てました。

    ブハラ・ハン国は、1500年代初頭に設立され、ヒバ・ハン国は
    1512年に設立されました。両国はこの後1920年まで、約400年
    間もの長きにわたり、存続しました。また、現在の首都タシケ
    ント周辺は、18世紀の初頭に設立されたコーカンド・ハン国の
    領土になり、1876年まで存続しました。

    18世紀になると、ウラル河畔に、中央アジア進出の拠点である、
    オレンブルグ要塞を建設したロシア帝国が、中央アジアへ進出
    を図ってきます。

    ロシア帝国軍は、1853年から、コーカンド・ハン国への進攻を
    開始し、1865年に、タシケントを制圧しました。そして1867年
    に、コーカンド・ハン国は、ロシア帝国に編入されました。
    さらに、1868年、ロシア帝国軍はサマルカンドを占領し、その
    後ブハラ・ハン国をロシア帝国の属国としました。1873年には、
    ヒバ・ハン国も征服され、ロシアの属国となりました。

    1917年のロシア革命により、中央アジア各国にも独立気運が
    高まります。1918年には、トルキスタン自治社会主義共和国、
    1922年にホラズム共和国、ブハラ共和国が成立しました。

    特に、トルキスタンは、自治を宣言し、コーカンドに政府を
    樹立しました。しかし翌年、ソビエト連邦の赤軍はコーカンド
    を占領し、政府は解散しました。その後も独立運動は活発に
    続いたそうですが、1922年には赤軍によって完全に制圧され
    ました。さらに1924年になると、独立した3国は、ソ連に併合
    され、ウズベク・ソビエト社会主義共和国となりました。

    その後、1991年のソ連崩壊に伴い、再び独立を宣言し、同時に
    独立国家共同体(CIS)に加盟して、ウズベキスタン共和国となり
    ました。同年12月29日、初の直接選挙が行われ、人民民主党の
    イスラム・カリモフが大統領に当選しました。1994年に、初の
    議会選挙が行われましたが、人民民主党が議席の過半数を占め、
    カリモフ政権は安定しました。けれども、今はほぼ独裁政権と
    なって統治しているそうです。

    1995年には、国民投票により、カリモフの大統領任期は西暦
    2000年まで延長されました。

    2005年に、東部アンディジャンで発生した反政府暴動鎮圧事件
    で市民に多数の死者が出たとの情報があり、ヨーロッパ諸国や
    国際連合などから「人権侵害」との非難が挙がりました。

    これに対し、カリモフ大統領は、暴動はイスラム過激派による
    武力蜂起だとして欧米側による報道を批判し、国際調査団を受け
    入れる考えのないことを表明しました。

    また、2001年のアフガン侵攻以来、ウズベキスタンは米軍の駐留
    を受け入れてきましたが、2005年にはこれを解消し、米軍は撤収
    することとなりました。これまで反テロの同盟国として協力関係
    にあった米国も態度を変化させ、民主化への要求を行い始めて
    いるそうです。

    <日本との関係>

    第2次世界大戦後、日本人の戦争捕虜は、ソ連の各地で
    強制労働キャンプに収容されました。ウズベキスタンにも
    約2万4千人の日本兵捕虜が抑留され、各地で建設工事や
    街の復興に携わったそうです。

    石炭の採掘工場、高圧電線、鉄道線路などの建設に携わり、
    戦後のソビエトの近代国家建設に一役買ったそうです。
    建設技術に対する評価は非常に高く、今でも語り継がれて
    いるそうですが、厳しい労働環境の末、命を落とした兵隊
    達も多く、ウズベキスタンでは、812人の日本人兵士が、
    収容中に亡くなったそうです。

    タシケントには、日本兵79名の墓があり、墓地の近くには
    小さな資料館があり、日本人強制労働者に関する展示を見
    せてくれるそうです。