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    <ベトナムの歴史>

    ベトナムの古代史は、インドシナ半島の全体の歴史に
    ついての歴史にもなります。

    ベトナムには、およそ30万年前の旧石器時代の遺跡が
    北部ベトナムのタインホア省で発見されています。

    紀元前2万年頃には、中期石器時代のソンビ文化の
    遺跡が発掘されています。続く紀元前1万年頃の、
    ホアビン文化時代では農耕などの文化があったとの
    研究もされています。

    歴史の中に国家として登場するのは、紀元前2880年
    ころの雄王(フンヴォン)の文朗国が最初です。
    雄王の伝説は現在もベトナム人の間に親しまれている
    そうです。

    紀元前800〜300年頃には、北部ベトナムの紅河
    (ホンハー)流域一帯に、東南アジアで最古の青銅器
    文化として知られる東山(ドンソン)文化が広がり、
    原始的な部族国家群を形成していたそうです。インド
    シナ半島からインドネシアの島にまで、そのころ作成
    された鳥獣模様の彫りこまれた青銅の太鼓が、各地で
    見つかっているそうです。

    これが、「古越人」(後のベト族)であるそうです。
    (中国の紹興一帯を支配した、越の末裔が、民族の
     ルーツとの説もあるそうですが)

    伝説によると、紀元前3世紀中頃に、ホン川中流域に
    甌駱(おうらく)という王国が、雄王の王国を
    倒して成立したと言われています。

    そして、紀元前3世紀に、はじめて中国を統一した
    秦によって現在のベトナム北部は征服されました。
    ベトナムには象牙や白檀などの特産品や、メコン川の
    デルタに広がる豊かな土地があり、この地方への侵略は
    中国にとっては魅力的な政策だったようです。

    秦の始皇帝時代に、始皇帝は北からの敵に対しては、
    万里の長城で備えを、南のベトナムに対しては、侵略を
    する政策を行いました。
    紀元前210年に始皇帝が病死すると、現在の広東地方
    の地方長官が南の「越」(春秋戦国時代の侯国)を意味する
    「南越」という王国を建国し、甌駱(おうらく)は併合
    されたそうです。

    その後、紀元前111年には、南越国を、漢の武帝が
    支配するようになったそうで、その後、千年間の
    あいだ、中国により支配されました。

    漢は、ベトナムを政治的にも文化的にも、中国に
    統合しようとして、中国人の官吏が土着の豪族達に
    とってかわりました。行政機構は強制的に中国式に
    なり、儒学が公式の学問となったそうです。

    中国語や漢字も導入され、芸術、建築様式や音楽も
    ベトナムに大きな影響を及ぼしたそうです。
    中国の支配に対し、40年には反乱もおきたようです。
    しかし、43年には漢軍の攻撃を受け、ベトナムは
    再び征服されました。

    7世紀後半に、唐が安南都護府を設置し、「安南」が
    ベトナムに対する呼称として定着しました。
    8世紀中ごろ、唐王朝に当時仕えていた、阿倍仲麻呂
    鎮南都護としてベトナムに赴任しました。
 
    唐の時代の末期の混乱により、938年にゴ・クエン
    (呉権)の指導するベトナム軍が独立国家を建国し、
    中国からの支配に終止符を打ちました。

    ゴ・クエンの死後、数十年間にわたって権力闘争が
    続きました。英雄ディンボリンが、ディン王朝を
    建てますが、死後、再び中国が侵略を始めたため、
    レホアン(黎垣)将軍がディン王朝を廃止して、
    自ら皇帝の座に着き、黎(レ)朝が始まりました。

    その後、11世紀初め、最初の長期独立政権である
    李王朝(リ王朝)が創始されました。李王朝では、
    中国の支配時代に導入された政治、社会制度が
    採用され、儒学は保護され、中国の官吏登用試験
    制度である科挙が、役人の採用試験でした。

    例えば、19世紀までは、ベトナム語は漢字を使って
    表記されていたそうです。今でも通りで中国将棋
    の盤をだして勝負をしている姿を見かけることが
    あるそうです。

    この李王朝と、その後継である陳朝(チャン朝。
    1225〜1400)のもとで、ベトナムは東南アジアに
    おいて、強大な国家となり、農業、商業や工業も
    隆盛しました。

    1407年、ベトナムはふたたび中国の明に征服され、
    約20年間、支配されましたが、1428年にレ・ロイ
    (黎利)に指導されたベトナムの蜂起軍が、明軍に
    勝ち、独立を回復しました。レ・ロイは即位して
    後期黎朝(後期レ朝。1428〜1789)の初代の皇帝と
    なりました。

    このように、黎朝→李朝→陳朝→(後)黎朝→
    グエン王朝とベトナム王朝は続きますが、その後
    フランスに侵略され、植民地となっていきます。

    この間、11世紀後半には宋の軍隊に襲われました。
    中国の後には蒙古が侵略の脅威となりました。元は
    チンギス・ハンによって13世紀にモンゴル高原に建国
    されました。西はロシア、トルコ、ペルシャ、東は中国、
    朝鮮を征服した巨大な帝国です。13世紀後半には、
    元のフビライ・ハーンの軍隊が3度にわたって
    ベトナムの再併合をめざして遠征してきました。
    ベトナム人は抵抗し、激戦の後、独立を確保した
    そうです。そして、独自の文化を残していました。

    中国の後には蒙古が侵略の脅威となりました。元は、
    チンギス・ハンによって13世紀にモンゴル高原に建国され、
    西はロシア、トルコ、ペルシャ、から、東は中国、朝鮮に
    至るまで征服した巨大な帝国です。
    第5代フビライハンの時代に、ベトナムへも3回にわたり
    進攻してきましたが、撃退したようです。ちなみに、元は
    日本へも3度目の進攻を計画していましたが、ベトナムの
    激しい抵抗にあって、計画を中止したそうです。

    一方、中部ベトナム海岸ではオーストロネシア語族
    系統のチャム族が、インドのヒンズー文化を色濃く
    受けた、海洋国家チャンパ王国を形成していました。
    「ろくろっ首の伝説」や、沖縄琉球王国の王女が、
    チャンパ王国へ嫁いでいった話等が日本に伝わって
    います。日本との関わりは古く、この頃までさかのぼ
    るそうです。

    ベトナムは、独立後まもない10世紀から、チャンパ
    王国と緊張関係にあり、抗争が続いていましたが、
    次第にチャンパ王国を南方においこみ、1470年には、
    事実上チャンパ王国を滅ぼしました。

    さらに、南部に進出したベトナムは、インドシナ半島
    最強の国家であったクメール帝国と衝突しました。
    しかし、クメール帝国は16世紀後半には、すでに衰退
    しており、17世紀前半、ベトナムに一部地域を譲渡し
    ほぼ、今のベトナムの領土になりました。

    その後18世紀末までに、後期レ朝は崩壊しました。
    そして、チン氏とグエン氏によって、ベトナムは
    南北に二分されました。

    グエン氏兄弟は、1786年にベトナムを統一して、
    タイソン朝を興しました。タイソンのグエン氏の
    王であったグエン・フエの死後、中部のグエン氏が、
    フランス義勇軍に援助され、タイソンのグエン氏の
    軍隊を撃破し、1802年にザ・ロン帝(嘉隆帝)として
    グエン朝を創始ししました。

    フランス義勇軍を組織した宣教師は、フランスに
    貿易とキリスト教布教の特権が与えられることを
    期待していました。しかし、グエンの皇帝たちは
    フランスの影響力に危機感をいだき、1830年代に
    フランス人宣教師を処刑しました。これに対して、
    ナポレオン3世はスペインと連合し、1858年に連合
    艦隊をベトナムに派遣しました。

    1859年から攻撃がおこなわれ、ベトナム軍は敗退し
    1862年に第1次サイゴン条約が締結され、グエン朝は、
    メコンデルタの一部をフランスに割譲しました。
    1884年のパトノウトル条約で、フランスはベトナムの
    保護国になり、完全にフランスの植民地になりました。

    フランスの植民地支配により、商業や工業は発達しま
    したが、大半のベトナム人の生活は貧しく、民族的な
    反発をまねいたそうです。

    1925年、ゴムのプランテーションのために、20万人の
    ベトナム人が移住させらました。そして、1930年に、
    なると、香港でグエンアイコック(後のホーチミン)
    によってベトナム共産党が創立され、次第に、アジア
    における民族主義運動が台頭してきました。

    第2次世界大戦が勃発すると、1940年には、日本が
    インドシナに進駐し、占領しました。この機会を
    とらえて共産党は、フランスおよび日本の支配に
    反対する各層を結集して、ベトミン(ベトナム独立
    同盟会)を組織し、ベトナム独立運動を開始しました。

    1945年の日本軍の降伏により、ベトミンが一斉蜂起、
    (八月革命)ハノイを占領し、ホーチミン主席により
    ベトナム民主共和国の独立宣言がなされました。

    これに対して、フランス政府はあくまでベトナムを
    元の植民地に戻し、戦争で失われた自国の国力を
    取り戻そうとしました。

    1946年に、フランスとベトミンは交渉による解決の
    ため、フォンテンブロー会談でもこころみましたが、
    意見の相違は解決されず、ベトミンとフランス軍の
    武力衝突がハイフォンで起こり、第1次インドシナ
    戦争が勃発しました。

    1949年、フランスはベトナム国を樹立しました。
    そして、グエン朝最後の皇帝バオダイ帝を立てて、
    傀儡政権を作り上げました。

    これに対し、中華人民共和国、ソ連のスターリンは、
    ベトナム民主共和国を承認します。このように、
    ベトナム国内の上に、資本主義国家対、社会主義
    国家の構図が描かれるようになりました。

    ベトミンは山岳地帯に引きひきこもって、抵抗を続け
    ました。1954年に、ベトミン軍が北西部山岳地帯の
    ディエンビエンフーのフランス軍要塞(ようさい)を
    陥落させて、8年近く続いた戦争は、ようやく終結
    しました。

    フランス政府は、戦争を終結させるための交渉を開始し、
    1954年のジュネーブ会議の結果、両国は7月に休戦協定
    を受け入れました。ベトナムの国土は、北緯17度線で
    南(バオダイのベトナム国)北(ベトナム民主共和国)
    に分割されました。

    しかし、恒久的な分割を避けるために、条約調印の2年
    後に再統一のための全国選挙を実施することが決められ
    ました。

    この後、南ベトナムでは、バオダイ帝が反共産主義者の
    ゴ・ディン・ジェム首相によって排除され、1955年に
    ゴ・ディン・ジェムはベトナム共和国を発足させて、
    初代大統領に就任しました。

    ゴ・ディン・ジェム政権は、アメリカの支援を得てい
    ましたが、反共産主義の路線で、ローマ・カトリック
    教徒や一族に対する極端な偏重、仏教徒への弾圧、
    経済政策の失敗により、民衆の反発をまねきました。

    北ベトナムはこの時を革命戦争再開の好機ととらえ、
    南ベトナムでは反政府勢力が結集し、南ベトナム解放
    民族戦線が成立、政府軍との闘いを開始しました。

    1963年、ゴ・ディン・ジェムは軍事クーデタによって
    たおされ、殺害されました。その後も、クーデタと、
    政権交代があいつぎ、南ベトナムの政治は混乱して、
    治安は悪化しました。

    1964年にトンキン湾事件がおこり、アメリカの
    ジョンソン大統領は、北ベトナムへの集中爆撃(北爆)
    を行い、本格的なベトナム戦争へと入って行きました。

    アメリカの干渉により、北ベトナム軍と南の解放戦線
    軍がおこした1968年のテト攻勢(テトとはベトナム
    の旧正月)は、グエン・バン・ティエウ大統領による、
    新サイゴン体制を、根底からゆさぶりました、

    1969年に、ホー・チ・ミンは死去して、北ベトナム
    の指導権は、レ・ジュアンが継承しました。
    南北の協定はすぐにやぶられ、1975年、北ベトナム
    は軍事攻勢をおこし、サイゴン(ホーチミン市)を解放
    しました。

    そして、1976年、ベトナムは共産主義に統一されて、
    ベトナム社会主義共和国が成立することにより、
    10年以上に亘る、ベトナム戦争は終結しました。

    しかし、ベトナム戦争後の経済社会状況は厳しいもの
    でした。急激な集団農場化や事業の国営化は、抵抗を
    ひきおこし、大量の中国系住民が国外へ流出しました。
    これらの人々が、インドシナ難民と呼ばれる人々です。

    カンボジアのポル・ポト政権との緊張も急速に拡大
    しました。1978年には、ベトナム軍はカンボジアに
    侵攻し、親ベトナムのヘン・サムリン政権を樹立
    しました。しかし、そのために、1979年には、
    後援者であった中国がベトナム北部国境に侵攻し、
    中越戦争に発展しました。

    結局、軍事費は増大し、1989年までに、ベトナムは、
    カンボジアやラオスから、軍隊を完全撤退させました。

    1986年末には経済および社会のドイモイという政策が
    打ち出され、グエン・バン・リン書記長の下、経済の
    改革開放路線が推進されることになりました。
    (経済の安定化が達成され、高度経済成長を記録した
     一方で、農村と都市の所得格差が拡大し、腐敗や
     汚職が蔓延したそうです)

    また、対外関係の改善も試みられました。1990年には
    EC(後のEU)と正式な外交関係を樹立し、中国と
    の外交関係を修復しました。ASEAN加盟国との関係強化
    も進み、1995年にはASEANに正式に加盟しました。

    1992年には韓国。1995年にはアメリカとも外交関係を
    樹立し、1997年にはロシアと経済関係の強化策に
    ついて協議をしました。1998年には、APEC(アジア
    太平洋経済協力会議)に加盟、1999年には、中国と、
    陸上国境を確定する条約に調印しました。

    1997年には、ベトナム共産党中央委員会総会は、
    レ・カ・フューを書記長に選出し、ドイモイ路線を
    推進し、2020年迄に工業国入りを目指しました。
    しかし、1997年のアジア通貨危機の影響で、外国
    投資が大幅に落ち込みました。官僚と党幹部の腐敗と
    汚職、複雑な許認可行政、わいろも横行しました。

    2001年、レ・カ・フュー書記長にかわり、ノン・
    ドク・マインが書記長に選出されました。少数民族
    出身では初の書記長でした。憲法が改正され、市場
    経済へ移行し、国会の権限は強化されました。

    2000年以降、ベトナム経済は、再び、8%に近い、
    高い成長率を示しています。外国からの投資も、
    再び盛んになり、2006年には過去最高の輸出額を
    記録しました。

    2006年には、APEC首脳会議の議長国をつとめ、さらに、
    WTO(世界貿易機関)への加盟が決まりました
    そして、この年に、ノン・ドク・マイン書記長が、
    再選されました。ドイモイ路線の継続と、汚職問題
    への取り組みが課題なのだそうです。