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    <イエメンの歴史>

    イエメンの歴史は、紀元前1000年頃のシバ王国にまで
    さかのぼります。シバ王国では、農耕が発達し、また
    特産品の香料(乳香)の中継貿易によって栄えました。

    古代ギリシャや古代ローマの時代には、イエメンは、
    「幸福のアラビア(Arabia a Felix)」という呼び名
    で知られるほど、繁栄したそうです。

    その後、525年には、エチオピアの勢力から侵入を受け
    575年には、ササン朝ペルシャの支配を受けることと
    なりました。7世紀に入ると、イスラム教が流入します。

    9世紀からは、ザイード派(イスラム教シーア派の一派)
    の宗教指導者(イマーム)を祖とするラシード王家に
    よる王朝が成立し、その支配が続くことになります。

    16世紀には、オスマン・トルコによる支配に入ります。
    しかし、イエメンは、オスマン・トルコの首都である
    イスタンブールから遠く離れていたため、力はほとんど
    及ばず、イマームでもある、ラシード王家が、実権を
    握っており、オスマン・トルコに対し、抵抗しました。

    そして、ついに1636年、ラシード王家が、全イエメンを
    オスマン帝国による占領から解放しました。その結果、
    イエメンの領土は、東部のハダラマウトから、北部の
    アシールまで、大きく拡大することとなりました。

    しかし1728年に、イエメン南部のラヘジ地方の代官が
    反乱を起こして独立したのをきっかけに、南部の部族の
    リーダー(スルタン)たちが相次いで王から離反し、
    無数の首長国が群雄割拠する状態になりました。

    19世紀になると、スエズ運河の建設が始まります。
    紅海の入り口に位置するイエメンは、西洋と東洋を結ぶ
    戦略拠点として重要となりました。イギリス、フランス
    両国が争奪戦を繰り広げた結果、1839年に、イギリスは
    港湾都市であり、インドへの海上ルートに重要であった
    アデンを占領しました。

    さらに、アデンに隣接する地方に散在する、イエメン
    南部にあった、数多くの首長国を保護領としました。

    イエメンの高地では、ラシード王家の統治が続いていま
    したが、1849年になって、オスマン・トルコがティハマ
    を占領した後、さらに、1869年のスエズ運河の開通後は、
    オスマン・トルコは高地にも勢力を伸ばしその結果、
    北イエメンを再び占領することとなりました。

    こうしてイエメンは、北はオスマン・トルコ領、南は
    イギリス領に分かれ、分断されたそうです。

    オスマン・トルコによる支配は全イエメンに及びまし
    たが、地方の首長はトルコに対して度々反乱を起こした。

    1904年には、ザイード派の指導者である、イマームの
    ヤフヤによる反乱や、1909年には、ザイード派の北部
    の部族による反乱が起こりました。

    1911年には、ヤフヤとザイード派に、自治権を与えると
    いう平和条約が交渉されましたが、トルコ軍との戦争は
    続いていました。
    しかし、オスマン・トルコ軍は、第一次世界大戦の敗戦
    により、次第に弱体化していきました。

    1918年オスマン・トルコからイエメン王国が独立します。

    イマーム・ヤフヤは、イエメン国王となりました。
    その後、1923年のローザンヌ条約で、トルコは公式に
    アラビア半島の全領土を放棄しました。

    イマーム・ヤフヤはティハマを中心に統治を確立させま
    した。しかし、1934年には、サウジアラビアとの戦争に
    より、アシルという土地が、1990年までサウジアラビア
    領となる条約を結ぶこととなります。

    1948年、イマーム・ヤフヤは南部の暴徒に暗殺されます。
    息子のイマーム・アフマドが跡を継ぎました。そして、
    1951年には、アメリカ、イギリス、エジプト、1956年に
    ソ連と、外交関係を結びますが、孤立した状態でした。

    1950年代、イエメンと王国と、イギリスのアデン保護国
    の間では、国境紛争が相次いでいました。そのような時、
    1958年にスエズ動乱が発生しました。

    スエズ動乱で、エジプトのナセル大統領はイギリスを撃退
    しました。汎アラブ主義を掲げ、シリアと合併し、アラブ
    連合共和国を成立させました。イエメンのアハマド王は、
    イギリスから南イエメンを取り戻すことを、ナセル大統領
    に支援してもらうため、アラブ連合に加わったそうです。

    しかし民主化したエジプトの影響で、北イエメン国内でも
    民主改革の要求が高まると、アハマド王は1961年には、
    ナセル大統領を非難し、アラブ連合を脱退しました。
    翌年の1962年にアハマド王が死ぬと、エジプトの支援で、
    アブドラ・サラール大佐が率いる、クーデターが発生し、
    即位したばかりの、息子のムハマッド王は追放されて
    しまいました。

    こうしてイエメン王国は、イエメン・アラブ共和国と名を
    変えてエジプトの衛星国になったそうです。アラブ連合は
    1962年に、シリアの脱退により、消滅しました。

    追放されたムハマッド王は、その後、イギリスとサウジ
    アラビアの支援を得て、8年に及ぶ内戦を始めました。
    イエメン・アラブ共和国側は、エジプトとソビエト連邦に
    支援されていましたが、内部でも権力闘争が始まりました。

    1967年の第四次中東戦争で、エジプトはイスラエルに敗れ、
    財政が厳しくり、イエメンから撤退しました。その結果、
    争いを続けていた、イエメン・アラブ共和国と、イエメン
    王国の亡命政府は、1970年に停戦しました。停戦後に、
    イエメン王国の旧閣僚たちは、共和国政府に加わり実権を
    握り、イエメンは共和国でありながら、地方は依然として
    封建的な部族のリーダーが支配する形となってしまいました。

    ムハマッド王も、イギリスへ亡命してしまいました。

    その後、1974年の軍事クーデターで大統領になったハマディ
    は、王制の復活を試みましたが、1977年に暗殺され、続く
    ガーシミ大統領も翌年暗殺され、イエメン国内は混乱が続き
    ました。そして、36歳のサーレハが大統領になり、独裁体制
    を築きました。

    一方、イエメンの南部は、イギリスがアデンの周りを直轄の
    植民地として維持しているだけでした。イギリスは、アデン
    と、周囲の31もあった、数多くの首長国を、南アラビア連邦
    などとして、連邦を組ませ、親欧米の国家として独立させる
    つもりだったそうですが、反英反封建を掲げてゲリラ戦を
    していた、民族解放戦線(NLF)の攻略が、進んでいきました。

    1963年には、民族解放戦線(NLF)のゲリラ闘争は、アデンに
    まで拡がり、1967年後半には、イギリスはアデンから撤退し、
    南イエメン人民共和国が誕生しました。カフタン・アシュ・
    シャービが大統領に就任しました。

    しかし、イギリスの撤退により、経済は崩壊しました。
    そのために、民族解放戦線(NLF)の活動を支えていた、共産圏
    からの援助が頼りでした。その後、マルクス・レーニン主義
    (社会主義)路線を主張するNLFの急進派が主導権を握り、
    1970年には、国名も、イエメン人民民主共和国と改称され、
    南イエメンはソ連の衛星国となり、アデンはソ連海軍の拠点
    となりました。 南イエメンは、「アラビア半島のキューバ」
    になったそうです。

    1980年に入ると、次第に、イエメンの統一活動が進みます。

    1988年には、南北イエメンの間で、パスポートは不要となり
    ました。さらに、1989年、ソビエトが崩壊します。共産圏
    の援助が止まり、イエメン人民民主共和国は、経済的に破産
    の危機におちいり、イエメン・アラブ共和国に助けを求め
    ました。両国の首脳の会談で統一が決定し、1990年には、
    現在のイエメン共和国が成立し、大統領には、北イエメンの
    サレハが就任しました。

    しかし数カ月後には、南北の対立が鮮明となりました。

    部族勢力やイスラム勢力を代表する保守政党と、社会党の
    間での争いが発展しました。1994年には、旧南北間で内戦
    が勃発します。お互いが、首都にスカットミサイルを打ち
    込み合い、16000人とも言われる死者を出したそうです。

    結局、南側勢力は国際的な支持を得られず、北イエメンが
    南イエメンの首都アデンを制圧し、内戦は終わりました。

    1999年に、国民の直接投票による初めての大統領選挙が
    行なわれました。2000年には、アデン港において、イスラム
    原理主義アルカーイダによる、米艦コール襲撃事件が起こり
    りました。

    イエメン政府は、その後南北格差の是正に取り組んでいます。
    また、内陸部には依然として中央政府の統制が及びにくい
    伝統的な部族社会の首長が存在し続け、アメリカからは、
    イスラム過激派の温床と目されて、統一後も、イエメンの
    前途は多難だそうです。