難問を考えるトップページ > 悩んだ時のメッセージ > 失敗を活かすとは
失敗を活かすというのは、実は決して、それほど
簡単なことではありません。
分かっていても、同じような過ちを何度も何度も
繰り返してしまうものです。
また、やってしまったと、大いに反省しても、
また、いずれ、近いうちに、同じことをして
しまうものです。それが人間の悲しいところです。
とにかく、失敗を活かすのは根気が必要なものです。
失敗の原因は、その人の癖にあることが多く、
癖というものは、簡単にはなおらなからです。
癖に対して、真っ直ぐに向き合う対策は、正面から
対処するには、ただ一つしかありません。
それは、何度も、何度も、同じ過ちを繰り返して
しまいますが、その都度、また何度も、それこそ、
過ちを犯す回数に負けないくらい、何度も、
何度も、しくこく、反省すれば良いことです。
でも、進歩がないのはつらいことなのです。
その気持ちは、よく分かりますが、それでもなお、
正面から失敗を活かせるように、癖を直す方法は、
ただ、ひたすら、繰り返しなのです。
正しく反省をするということは、失敗を活かそうと
いう強い心構えを持って、実際に失敗を活かすための
教訓を考え抜くことが第一歩だと書きました。
うまく失敗を活かせるまでは、何度も反省します。
ひたすら、失敗、反省、失敗、反省のサイクルを
何度も何度も繰り返していきます。
すると、いつの間にか、反省するのが習慣になり、
無意識のうちに、取るべき行動が自然に出来る
ようになります。そうなった頃に、ようやく、その
過ちを犯す”癖”から脱皮できたことになります。
癖の修正には、長い時間がかかるわけです。
反省の繰り返しです。でも、気落ちをしたり、
簡単にあきらめる必要もないものです。
そもそも、
”自分で”失敗するから、その感覚が身に沁みて
よく分かり、その時に、ようやく、”自分でも”
解決しようという気になるのです。
他人から、指摘されたとき、照れ隠しではなくて、
本気で言い訳を考えたり、また考えるだけではなく、
実際に口に出して自己弁護している間は、まだ、
正しい反省が足らないということです。
その程度の反省では、いずれまた同じ過ちを犯す
ことになるでしょう。
”自分で”失敗をし、問題意識を持ち、そして、
”自分で”解決方法を考えるからこそ、失敗を
した意味があるのです。
他人に指摘されて、怒っている間は、まだその
ことを他人事だと思っているからでしょう。
きっと、また、新たな言い訳をひねり出して、
別のところで、同じような過ちを犯すことでしょう。
厳しいことばかりを書いてしまいました。
本当は、そのようなことは、きっと自分でも心の
どこかで薄々、気が付いているはずです。
しかし、こうして、自分の弱いところばかり見つ
めていると、惨めな気持ちになり、気持ちはさらに
落ち込むばかりになるしょう。
そういう時には、人の失敗談を聞くのが、良いかも
しれません。失敗談はいくらでも世にあるものです。
他人の成功話ばかり聞いていると、正直、楽しい
気分になれないこともあるでしょう。自分が
良い状態でないなら、その方が普通です。
そのように、自分の状態が思わしくない時には、
人の失敗談を聞いている方が、気が楽になることが
多いものです。
気持ちが楽になれば、ゆとりが生まれます。
ゆとりが生まれれば、落ち着いて、自分の失敗に
向き合い、自分自身で、”問題意識を持つ”ことも、
出来るようになります。
ここからは、誰でもよく見られる失敗について
考えていきたいと思います。
まず、
世間でよく見られる失敗に、人の目(他人の目)を
気にするということがあります。
人の目が気になると、行動が起こせないものです。
人の目を気にするということは、身につけてきた癖と
いうよりは、むしろ、生まれつきの性格から来ている
ことが多いのかもしれませんが。
そして、こうした生まれつきの性格、内面的な習性は、
相当意識して修正しないと、決して簡単には治らない
ものでもあります。
”人の目を気にする ”ということはないでしょうか?
「私には、ない」とは、決して言えないでしょう。
決して、一度も人の目を気にしたことはないと、
本心から言い切れる人はいないでしょう。
また、人の目を気にして、そのために、失敗した
ことも、一度や二度、必ずあるはずです。
そのくらい、人の目を気にするということは、人の
習性として根強くあり、よくあることなのです。
あまり、人の目を気にしすぎると、かけがいのない、
自分の人生を棒に振ることになりかねません。
自分らしい、自分の人生を生きることが出来ません。
人に合わせすぎると、最後に自分にしわ寄せがきます。
そして、結果的には、溜まった不満がある時、一気に
噴出し、逆に身の回りの人へ、余分なストレスを
与えてしまう原因にもなりかねないからです。
失敗した時に重要なことは・・・、
その失敗を教訓として、将来もっと重要な時に、
この自分の癖が出て、大きな失敗をしないよう、
教訓を胸に刻んで、失敗を活かすことでした。
”人の目を気にする ”ということに当てはめて
考えてみますと、
後から考えれば、どうでも良いような、人からの
視線やうわさ、批判を恐れて行動に移せなかった時、
いくら自分で言い訳しても、まだ、もやもやとした
気持ちが残らないでしょうか。
そうならないように、
人の目を気にするのは、ほどほどにしておいて、
感情という、自分の内面から聞こえてくる声を
もっと、もっと、大切にする必要があるのです。
そうして、自分の感覚、感性を、自分から研ぎ
澄ませるのです。しかし、人の目を気にすると、
後々まで悔いが残る結果になりかねません。
自分は自分、人は人、失敗したら、他人の目にどう
映ろうとも、時には強い気持ちで、自分の感覚を
信頼して、不満は溜め込まず、無理しないことです。
時に、何事もなかったように、平静に振舞うのは、
周囲の人への気配りで、美徳でもあります。
しかし、人の目を気にすることが行き過ぎてしまうと、
最後は、自分を不幸にし、そして気にかけ、遠慮を
してきた他人にも、迷惑をかけることが多いものです。
誰でも、失敗をするものです。
そして、失敗を活かせないままに、ほとんどの
人はまた、同じ失敗をすることになります。
そのような、時間を消費する、無駄な繰り返しを
避けるためにも、失敗をしたら、何かに活かす
という意識を忘れないようにします。
失敗と言っても、より具体的に自分に関係のある
事柄で考えないと、実感が湧かないものです。
では、自分の大きな失敗を3つあげてみましょう。
1分間で、何個ほど、考え付くでしょうか?
失敗を認めたくない、という人は別にして、必ず
一つや二つは、簡単に思いつくはずです。
今度は、よくある失敗の別の例として、
「極端に走る」ということについて考えてみます。
程度の差はありますが、「良くも」、「悪くも」、
人は極端に走ってしまう傾向があるようです。
ある人は、非常に慎重に見えて、その一方で、
非常に無用心であったりします。
別の人は、大らかな時があるかと思えば、ある事に
ものすごく、ケチんぼでもあったり、
人は、なかなか、ちょうど良い、そういう状態では、
ないのです。心当たりがないでしょうか。
ちょうど良いところで済ますのは難しいことです。
ほどほどで済ましておく、普段は出来ていても、
時々、バランス失って、感情や欲望のままに、
とことん、行き着くところまでやってしまうのです。
そして、また、後悔します。
人間は、何か素晴らしいことをしている時は、
誰でも輝いて見えるものです。しかし、実際には、
人間はもろい一面を持っていて、ささいなことでも
条件さえ整えば、簡単に崩壊する面も持っています。
良い面が出るときは、とても良いのですが、一旦、
悪い面が出ると、どこまでも、その悪い方へと、
突き進んでしまうことが、誰でもあることです。
では、極端に走って、失敗をしてしまった時、
どのように、その失敗は活かせるでしょうか?
一般的に言えば、失敗をするのは、その人が
無意識に持っている”癖”が原因になっている
ことがよくありますと書きました。
ここに、ひとつのヒントがあります。
つまり、こういうことです。
失敗をしそうになった時に、どこまで自分を
コントロール出来るか?ということについては、
自分で、自分の”癖”を意識しているか?
または、全く意識していないか?ということで、
その結果が決まってくるということです。
”日頃から、自分の癖を意識する習慣”が出来て
いるかどうか、で失敗をしそうな時に結果が
変ってくるということです。
「極端に走る」ということも、なかなか、根が
深い人間の性(さが)ですが、自分の癖だと
気がつくだけで、結果はましになるでしょう。
小さなことならば、実際には、多少極端に走った
としても、大きな問題にはなりにくいものです。
しかし、問題にならないからと言って、もし、
自分の”癖”をそのまま放っておいて、自分の
癖に気がつき、自覚する機会がないまま、つき
進んでしまったら、将来、もっと大事な場面でこの
いつもの”癖”のために、自分を非常に不利な
状況に追い込んでしまうかもしれません。
そうならないためにも、癖は小さなことで気が
つくのが一番良いのですが、大抵、ほとんどの人は、
行き着くところまで行かないと、癖を直そうとは
しないものです。
そして、失敗を活かすための、一つの方法は、
”とことん、その失敗を考えてみる”ことです。
では、「極端に走る」ということが何を意味
するのか、実際に、とことん考えてみましょう。
大きな長所とは、大きな短所になる可能性が、
ある、ということです。(その逆もあります)
どんなに、良いことでも、必ず悪い部分もある
のです。良すぎるというのは、ひょっとすると、
悪いことかもしれないのです。
長所と短所とのバランスの中で、常に良い側を
発揮出来ればよいのですが、そう簡単にいきません。
逆に、どんなにひどいことでも、必ず、少しは
良い部分もあるのです。どんな悪行にも、少しは
真実が、含まれていると言えるでしょう。
ここで、誤解のないように、書いておきますが、
決して犯罪を肯定する意味ではありません。
けれども、世の中で、一般に”悪”と言われて
いることでも、少しは、その中に”善”としての
要素も見え隠れしている、ということです。
”悪”は、”善”そのものでは決してなくても、
そうした、悪が起こる背景を理解することによって、
将来は”善”につながる可能性のある一面が
悪には含まれていることもある、ということです。
例えば、夏期、一つの重要なポイントである、
”時間に規則正しくする”ということでも、
行き過ぎると、問題が生じます。
全ては、あくまで、原則です。
時には、時間を忘れて、心ゆくまで楽しむことの方が
もっと、大事な時があります。その時に、原則に
固執すると、またとないチャンスを逃すことも
よくあることです。
ここで言えるのは、
始めの段階で、”時間に規則正しくする”ことが
自然に出来るようになってこそ、次に、時間を
忘れて、心ゆくまで楽しむようにするという
ことが、自然に出来てくるということです。
いつも、時間を忘れて、心ゆくまで楽しむこと
など、ずっと永遠に続けて出来るわけがなく、
必ずどこかで限界にぶつかってしまうものです。
また、一般に、美徳とされる、人に優しいという
ことですら、行き過ぎると、かえって人に冷たい
のと同じ程度、時にはそれ以上に迷惑なことを
していることになってしまいます。
善意の行為でも、行き過ぎると、”有り難迷惑”に
なってしまうのです。人に優しくすることですら、
相手に負担になります。本当は、ほどほどです。
以下、同じように、
物事は、真面目にしなければいけませんが、それが
行き過ぎ、融通が効かず、ユーモアを忘れては、
”くそ真面目”になって、一緒にいる人には、実に
不愉快なことになります。
正直であるのは大切なことです。でも、状況を
見て、その場を丸くおさめることが出来ないと、
”馬鹿正直”です。本当のことを言ったがために、
無用な争いが起こることだってあるのです。
いくら意志が強くても、裏目に出てきて、無理が
たたれば、意志が弱いことに劣らず、身体には
災いとなってきます。心当たりはないでしょうか。
適当な緩み、そして、弾力性があるから、続くの
です。そして、続けると、「連続性の不思議」が
作用して、予想しない良い成果が出たりします。
物事には、必ず二面性があります。ですから、
白、黒をあまりに明確にすると反発されます。
もっと例を挙げれば、自分を信じることは大事な
ことです。是非、強い自我を持ち続けましょう。
けれども、ひょっとすると、相手が言っている
ことも、それなりに、立場か変れば正しいかも
しれないのです。
そうした場合に、もしかしたらそういう考えも
ありうるかもしれないと、少しだけ、気持ちに
余裕を持てば、人との対立も少なくなるでしょう。
それは、他人の意見に振り回されるのではなく、
決して、無条件に受け入れるのでもありません。
自分と反対意見をいう人を、好きになれなくて
普通です。でも、少なくとも、立場を超えて、
相手の状況をを理解しようと考えるのは、決して
悪いことではありません。
勝ち負けも同じ。勝ちっぱなしガ良いとは限りません。
いくら、連戦連勝と言っても、勝負にこだわって、
人に勝ち過ぎることも、やはり、良くないこと
なのです。負けてこそ、人の気持ちが分かり、
また、自分の感じる世界が広がるものです。
太極拳のマークをご存知でしょうか。
2つの火の玉のような模様が、互いを追いかける
ように、丸くつながっています。2つの模様は、
陰と陽を表しています。
陰と陽は、本来はお互い反対の性質を持ちますが、
同時にお互いを補い合って、より良い関係をつくり
上げるのです。反対の性質のものは、うまく互いを
活かせば、相乗効果で、1+1=2でなく、それ
以上になるということです。
以上、とことん、「極端に走る」ということに
ついて考えて書いてみました。
このように、失敗について、教訓を活かそうと、
色々考え続けるのも、失敗を活かす一つの方法です。
失敗しても、悪く考える過ぎる必要もなく、逆に、
勉強や教訓になることが必ずあるはずです。
ですから失敗して、気落ちしている時にも、その
失敗の中に教訓を見つける習慣を、心の片隅に
常に置いておくことです。その内に、自分を失敗に
陥らせる、”癖”に対する意識も、徐々にではあり
ますが、身についてくるものです。
さて、次は、誰にでもありそうな失敗として、
”礼節を軽んじる”ということについて考えて
みます。
「最近の若い者は、しつけがなっていない」という
愚痴は、いつの時代でも聞かれるものです。
日常生活の中で、意識して礼節の大切さを考えて
話し方を丁寧にしたりすることは、近頃の社会で、
次第に最近、減ってきているようにも感じます。
”礼節を軽んじる”という失敗は、意外に軽く
考えられるものです。そして、軽く考えられるので、
意外に、大きな失敗の原因になっているものです。
礼節を軽んじたくらい、実害は少ないだろう、
若い頃でも、いくらか経験を積んだあとでも、
油断すると、そう考えてしまいがちです。
しかし、礼節を、あまりに軽く考えると、後で、
非常に厳しい結果を招く種類のものです。
#他人に対しての礼儀、礼節を大事にすること?
そんなこと、当たり前で、普通ではないのか。
そう、言い切れる人は良いのですが・・・!
でも、そうした、当たり前のことが、最近では
当たり前ではなくなりつつある時代のようです。
人の印象というものは、その人の話す内容よりも
その人の雰囲気といったもので決まるというのを
聞いたことがあるでしょうか。
礼儀作法がないと指摘され、大変に、恥ずかしい
思いをしたことはないでしょうか。
自分が恥ずかしい思いだけ済むなら、まだ、良い
のですが、うかつに礼節を軽んじると、こちらは、
全く悪気がある訳ではないのに、上下の関係に
敏感な人には、好ましくない印象を与えてます。
そうすると、後で、良い印象を与えた時の何倍もの
努力が、代わりに要求されるようになるものです。
礼儀作法とは、いわば、潤滑油です。礼儀作法を
知らずに行動するということは、油をさしていない
機械を、強引にフル回転させるようなものです。
いくら、機械の強度が高くて、精度が良くても、
きしみながら回し続けるとどうなるでしょうか。
このようなたとえ話を書いたとしても、
#上下関係に厳しい人が特別なんだ、注意しよう、
でも、あとの人の場合は大丈夫。それよりも、
結果が大事だ。適当にしよう。
と思う人もいるでしょう。
そういう場合は、反対の立場で見てみましょう。
特に礼儀作法に対して敏感な人ではなくても、
もし、相手が礼儀正しく対応することで、自分は
良い気分を感じ、その後、きっと相手への対応も、
大きく変わるでしょう。
ましてや、相手がお客様なら、礼儀正しい対応が
普通に出来るかどうかで、その後の取引きが大きく
変わるというものです。
いくら才能があっても、自分一人の力では限界が
あるものです。他人に好かれなければ、どれだけ
損をし、遠回りをして、恥ずかしい思いを経験し
なければならないことか。私も経験しました。
#でも、あの人は、ほんとに失礼な人なんだ!
自分だけが、馬鹿丁寧に対応などしたくない。
確かに、時には、礼儀や礼節を鼻先でせせら笑う
人に出会うかもしれません。こちらの丁寧な態度を
良いことに、ごう慢な態度になる人もいます。
例外は、必ずといって、実際にはあるものです。
そうした時に、臨機応変に調子を変えて、相手に
見合うような、やや失礼な対応になってしまうのも、
実際には、やむを得ない場合もあるでしょう。
確かに、特別な目的がない場合には、そのような
相手は、出来るだけ避けて通るのは、世間を生きる
ための使う、一つのやり方です。
しかし、ここで、大事なことは、
”良識のある人々”に、まともに相手をされなく
なると、苦労をしなければならないということです。
礼節や礼儀を正しくすることは、思っているより
大事なことです。軽く見ると、後で苦労します。
同じ努力で、非常に大きな差が出来てしまいます。
礼節や礼儀を正しくすることは、相手に対して、
こびたり、へつらうことではないのです。
相手が気持ち良く感じているのを、自分も感じたい。
だから、礼節を大切にしたい。
そうした、単純で純粋な動機が、一番大切です。
相手が、気持ち良く感じているのを見るのは、実は
自分にも楽しいことだと気がつけば、損得勘定が
なくても、自然に、ストレスなく出来るように
なるはずです。
以上、誰でも経験したであろう、日常生活の中で
起こり得る失敗について見てきました。
大きな失敗というものは、その時には、本当に
全てが終わってしまったように感じるものです。
それほどの大失敗ではなくても、赤面して冷や汗を
かき、頭が一瞬、真っ白になるものです。
致命的な失敗だと感じた瞬間には、時間が凍り
つき、正常な思考すら出来なくなります。
しかし、
失敗というものは、意外性のあるものです。
時間が経てば、やがて、心は次第に元の落ち着き
を取り戻してきます。
そして、もっと時間が経ってから、その失敗を
振り返り、冷や汗をかいたことを思い出すと、
今の自分が、その時と比べて一層、力強く、
また、たくましくなったことを感じるものです。
さらに、もっと、もっと時間が経つと、その
失敗がきっかけで、事態が方向転換し、意外な
良い結果を招くこともあると気がつくものです。
全力で努力したのに、結果が出なかったとき。
そうしたときには、怒りが込み上げたり、
悲しく感じたりすることは仕方がありません。
全力でしたなら、落ち込みも大きいものです。
ですが・・・、
心の片隅にでも、この結果は、何か意味があるの
だと、自分に言い聞かせるだけの余裕が、少し
あれば、立ち直りも、随分早くなるものです。
今は、目の前が真っ暗になると感じたことが、
それは、ひょっとすると、自分の将来にとって、
一つの大きな転機になることなのかもしれないのです。
私はこのことを知るのに、遠回りをしました。
失敗を、活用する一つのユニークな方法として、
自分の嫌いなものや、思い出したくない失敗を、
あえて、思いつくままに沢山書き出してみます。
書き出したものは、教訓のぎっしと詰まった、
自分だけの、宝箱のメモにもなるでしょう。
その理由は、そもそも、自分の嫌いなものとは、
別の意味では、自分に何かを考えさせてくれる
良い材料となるものだからです。
自分の失敗、嫌いなものを書き出したリストは、
有効に活用をすれば、その中から、生の体験に
よる貴重な教訓が、いくつも見つかるものです。
一度、試して見て下さい。
しばらく時間を置いて、
自分の気持ちに余裕や、ゆとりが出来てから、
事態を笑いとばせるようになるのが理想です。